みやぎ会津会
活動2010 このページでは
2010年(平成22年)のみやぎ会津会の活動を紹介しています
2014/2/12更新
トップ これまでの活動一覧



2010年(平成22年)の活動
1月25日 第3回総会
4月11日 初の観桜会
5月17日 第7回例会
7月1日 会津史談会と交流
8月9日 初の親善ゴルフ大会、納涼ビアパーティ
10月2日~3日 2010年年ふるさと訪問
10月24日 初の芋煮会挙行
10月23日 (東京)会津会出席



 2010/11/10
 (東京)会津会総会に参加しました  10月23日、上野精養軒で開催、150人が出席
 100年近い歴史を持つ「会津会」(事務局・東京都文京区千石、会津学生寮内)の22年度総会が10月23日、台東区上野公園の上野精養軒で開かれました。例年、みやぎ会津会には須佐尚康会長宛てに総会への招待状が届きますが、今年は会長代理として穴澤鉄男幹事が出席しました。
 午前11時からの総会には、会員、来賓などおよそ150人が出席。川島廣守会長は冒頭のあいさつで「健康のため、歩くこと、笑うこと、この二つを日常生活で忘れないでください」と強調しました。
 21年度会計報告、収支決算報告が承認され、役員改選では、2年後の会設立100周年記念事業を控えていることから、川島執行部の体制を継続することが承認されました。敬老杯贈呈、新入会員紹介の後、来賓を代表して会津若松市長の菅家一郎さんが祝辞を述べました。
 100周年記念事業は、プロジェクトチームが内容の検討を行っており、平成24年夏に上野精養軒を会場に、講演会、総会、記念式典、祝賀会を開く方向とのことです。会の設立は明治45年4月20日です。
 総会終了後は懇親会に移りましたが、ボニージャックスが冒頭特別出演、会場に華を添えました。1時間近く、懐かしのメロディーを披露し、歌い終わった後は、懇親の席に4人のメンバーも加わりました。メンバーの一人、西脇久夫さんが会津会の会員であることから、今回の特別出演が実現しました。西脇さん自身は塩釜市の出身ですが、お父様が会津出身という縁で、入会したとのことでした。
 最後は、参加者が加わっての会津盆踊りで締めくくりました。
特別出演で熱唱するボニージャックス 懇親会は、会津盆踊りで大きく盛り上がった



 初の試み、芋煮会を挙行 2010/10/30
 「肩のこらない、話の弾む集いを・・」とのご要望に応え、みやぎ会津会初の試みとなる芋煮会を10月24日(日)、仙台市西郊の広瀬川河畔で行いました。
 会場は「松ぶちガーデンテラス」。青葉通り七十七銀行本店前を出発した送迎バスを国道48号「文殊堂前バス停」前で下車、近くの急な階段を広瀬川に向かって降りると、狭い段丘に業者が鍋、食材、燃料を準備して待っています。それらを受け取り指定された場所に行けばよいのです。楽なものです。指定の場所には川原と段丘広場の2種類がありますが、私たちは広場にセットされたテーブルの席でした。ドラム缶を加工したカマドにマキを積み上げ点火すると勢いよく燃え上がり、最近家庭では体験できない薪を使った料理に会員一同やや興奮の面持ちでした。
 鍋の煮上がるのを待たずにビールで乾杯。某女史持参の漬物を肴に会員が持ち寄ったビール、酒、ワインを飲むうちに四方山話に話が弾みます。そうこうしているうちに鍋が沸騰してお待ちかねの芋も煮上がり、ふうふう言いながら食しますと更にアルコールが入って、予定時刻を大幅に超過しての帰参となりました。
 参加会員は17名、会費は3,000円でした。
芋煮会写真集
まずかまどに薪をくべて準備、勢いよく燃え上がりました 飲む前に記念写真 かまどの煙が目にしみます
改めて自己紹介 新たな出会いが (東京)会津会への出席報告もありました
漬物の極意は・・ 川原でも大勢が芋煮会を楽しんでいました




 
 2010年ふるさと訪問 2010/10/20
 今年で2回目となる「ふるさと訪問」は、会津藩転封先の斗南(となみ)藩ゆかりの地を訪ねることとし、10月2日から3日にかけて行われました。
 斗南藩小参事(ナンバー3)広沢安任
(第7回例会講話「こちら側の志士・広沢安任」を参照してください。)が青森県小川原湖東・谷地頭の地に開設した日本初の民間洋式牧場の跡地に設けられた「みちの駅みさわ斗南藩記念観光村・先人記念館」を訪ね先人に想いを馳せると共に、十和田市周辺の会津藩士子孫の方々(十和田会津会)と交流会を持つことを軸に計画、周辺の観光も取り入れ、充実した内容となりました。
 参加者は15名、交流会では十和田会津会から6名の方々が参加されました。
 貴重な時間を割いて交流会に参加され、さまざまなお話を聞かせていただいた十和田会津会の皆様、まことにありがとうございました。

2010年 みやぎ会津会ふるさと訪問行程  
2010年
10月2日(土)
 8:30 仙台駅前発  東北自動車道経由
12:40 「八戸ゆーらんど新八温泉」で昼食 (ひっつみ定食)
13:30 昼食会場発  第二みちのく道路経由  
14:30 みちの駅みさわ斗南藩記念観光村・先人記念館
15:40 青森県立三沢航空科学館 
17:00 十和田市「十和田富士屋ホテル」着 
18:00から十和田会津会の皆さんと交流会
2010年
10月3日(日)
 8:50 ホテル発 
 9:00 「十和田市現代美術館」 奥入瀬渓流見学(石ケ戸、銚子大滝など)
12:00 十和田湖畔・休屋「レストラン休屋」で昼食(きりたんぽ鍋を中心にした料理)
     樹海ライン経由  
14:00 小坂町・「康楽館」見学  東北自動車道経由 
17:30 仙台駅前着

2010年ふるさと訪問写真集
一日目の昼食は八戸ゆーらんど新八温泉で。
快晴の中バスが玄関前に到着。
昼食メニューは、八戸名産ひっつみと新鮮な魚介を使った たらしご飯。
大きな部屋でゆっくり食べることができました

いよいよ斗南藩記念観光村・先人記念館へ入場です。
今年は広沢安任生誕180周年、先人記念館15周年の記念の年に当たり、斗南藩に関する企画展が開催されていました
館内では、広沢安任(ひろさわやすとう)に関する多くの資料が展示されています。
これは斗南藩小参事に任ずる辞令。
記念館に隣接する敷地に復元された広沢安任の居住地「69種草堂苑」内では、大久保利通が政府任官を要請したときの会見の様子が人形で再現されています。 「69種草堂苑」の全景。

みちの駅みさわ斗南藩記念観光村では、牧場開設に従事した人たちの様子を開墾村として復元・展示しています。 三沢基地に隣接する「三沢航空科学館」では、ゼロ戦のレプリカが特別展示されていました。
三沢航空科学館」の屋外展示場には、各種の戦闘機、輸送機などが展示されています。 展示戦闘機のひとつ、F4 ファントム

十和田冨士屋ホテルにおける「十和田会津会」との交流会で挨拶する須佐会長。

挨拶される「十和田会津会」理事 伊藤幸則氏。十和田会津会からは6人の方々が参加されています。

乾杯のご発声は「十和田会津会」八島明彦氏。

交流会に駆けつけた三沢先人記念館学芸員の堀内彩子氏が企画展を説明

みやぎ会津会上野省蔵氏が、「会津大津絵」を披露。

宴もたけなわ、「会津磐梯山」の節に乗せ、テーブルの周りでは盆踊りが・・・

二日目は最初に「十和田市現代美術館」を訪問。

十和田は馬の町、美術館前歩道の敷石には蹄鉄をモチーフにした装飾がほどこされていました。

奥入瀬・石ケ戸で記念写真

石ケ戸付近の奥入瀬渓流。
紅葉にはまだ早い季節です。

十和田湖畔での記念写真。
この日はあいにく小雨がぱらついていましたが、木陰で雨宿りできる絶好のポイントでした。

昼食は「レストラン休屋」できりたんぽ鍋。

「レストラン休屋」付近の十和田湖畔。

「レストラン休屋」店員さんの売り込み上手さに乗せられ、つい大目にお土産を購入。12月から4月までは休業だそうです。

小坂・康楽館2階座席に座って館の説明を聞いています。雰囲気のある芝居小屋で、このあと公演を待つお客様が入ってきました。

舞台下を見学、回り舞台の仕掛けを身近に見ることができました。回転は手動です。

舞台裏の楽屋。歴史を感じさせる壁一面に、これまでの有名出演者の落書きがいっぱい書き込まれていました。

康楽館全景。

ふるさと訪問を伝える新聞記事  
10月3日河北新報 10月10日福島民報

  先人記念館を紹介する河北新報
 



 
  親善ゴルフ大会、納涼ビアパーティを開催しました
10/8/22
 
 
みやぎ会津会初めての試みとして、親善ゴルフ大会、納涼ビアパーティを企画したところ、多くの皆さんが参加され、懇親を深めることができました

 親善ゴルフ大会は仙台ゴルフクラブ名取コースで開催、11名が参加しました。ぺリア12で競い合い,佐々木秀雄さんが優勝しています。
 
納涼ビアパーティは午後6時から青葉区国分町ユーラクフレンディアビル7F 「MIRACLE(ミラクル)」を会場に開催され、46名が参加しました。ビアパーティではゴルフ大会の表彰式も行われています。

須佐会長挨拶
宴に先立ちゴルフ大会の表彰式
ビアパーティの会場の様子、アトラクション、民謡、スピーチなど盛り上がっています




  会津史談会の皆さんが来仙、当会と交流 10/7 /2
 
 7月1日、会津史談会の方々が来仙され、当会会員、事務局との交流がありました。
 概要は以下の通りです。
1.   来仙の目的および来仙者数
  実地見学研修(仙台市内 飯沼貞吉、遠藤敬士翁の史跡)
  見学後、仙台市戦災復興記念館にて当会会員の飯沼一宇氏から講和を拝聴
  来仙者数 坂内實会長以下85名
2.  みやぎ会津会の対応
  金田事務局長、芳賀沼会員が
  会の取り組み状況
(会員数、設立の趣旨、例会の様子)を紹介
3.   会津史談会の概要
  ・名簿では300人程度の会員となっている
  ・会則によると以下の事業を行っている

   実地見学研修、講演会、研究会の開催
   会誌、その他出版物の発行…会長より立派な会誌を頂きました
   史料、史跡の保存に関すること先人の顕彰に関すること
4.   その他
   当日河北新報の取材がありました。



 
  第7回例会を開催しました up 10/6/6
総合進行役の今野富士美さん
 第7回例会は、5月17日(月)18時30分から仙台駅東口・仙台ガーデンパレス鳳凰の間を会場に開催されました。参加者は48名でした
 総合進
行は事務局の今野富士美さんが務めています。

講話の部
 須佐会長の挨拶に引き続き、前東奥日報社長佐々木高雄氏から

「こちら側の志士・広沢安任
と題し、お話を聞かせていただきました。

 佐々木氏は北京でお生まれになり、戦後旧満州から青森に引揚げてこられたとのこと。東奥日報に入社され三沢勤務のとき広沢安任のことを知り、「志」の何たるかを教えてくれ、歴史の本当の中身を教えてくれたのは「広沢安任」であったと述懐されています。

 お話は具体的で 躍動感に満ち、歴史に残る会津出身偉人の人物像が見事に語られています
 以下に要旨を記します。

熱弁をふるわれる佐々木高雄氏
聞き入る会員

 会社をリタイアして5年たちました。青森郊外に住んでいてほとんど外に出ていません。会話がなくなると声帯が緩み、声がかすれていましたが、ここに来るというので1週前から訓練しやっと声が出るようになりました。お聞きにくいと思います。お許しください。

 斗南藩もそうですが意外と知られていないのが広沢安任という人物です。テレビで坂本龍馬を盛んにやっています。司馬遼太郎(の著書)もそうですけれど、志士と呼ばれる人間は全部西側の人間なのです。東軍の人間に志士と呼ばれる人間などいるわけがないという不届きな作家もおりますけれど、私はある意味で坂本竜馬や高杉晋作などむこうの人間以上に日本のことを考えた志士がちゃんと会津藩にもいた、その一人が広沢安任だと思っています。そういうことでお話したいと思っています。
 70歳半ばを過ぎてぼけが始まるのではないかと危機感を覚えており、年表なども準備してきました。できるだけ正確な話をしたいと思っています。

 広沢安任は天保元年(1830)に生まれました。会津藩の最下級の武士の出身です。2軒長屋で玄関にドアがついてない、筵がぶら下がっているような家に育ちました。幼い頃から兄たちと一緒に春は山菜、秋はきのこを採って家計の足しにしています。非常に頭が良くて勉強好きで、中級以上の武士が中心だった日新館に下級の武士から抜擢されて入っています。そこでめきめき頭角を現し、26歳になった頃藩から抜擢され江戸の昌平黌に入学します。(いまでいえば)東京大学に入るのです。そのころの昌平黌の学長は学問所創立の林羅山に連なる学頭林子平です。この人に目をかけられ、しかも成績優秀なものですから、二つあった寮のうち、西国の藩の寮長は長州藩の子弟、東国の藩の寮長は広沢安任が勤め、第一等の成績を修めて卒業します。
 ちょうどペリーが来ていました。会津藩は沿岸警備を申し付けられ、木更津に駐屯します。彼も木更津で警備隊員として勤め、ペリーの艦隊を眺めることになります。彼が外国に触れる最初のことと思います。彼は自身の知識の足らなさを身をもって感じ、水戸の藤田東湖のところに弟子入りします。そこでヨーロッパのいろいろな知識を仕入れます。

 幕府からも注目されていました。その頃日本を窺っている外国がたくさんありました。ひとつはロシアです。ロシアの使節団が函館に来て国境談判を始め、千島列島をよこせ、樺太をよこせといい始めました。幕府の国境談判の使節団は糟谷筑後守で、昌平黌を修了しただけでまだ無名の広沢安任が随員として抜擢されました。函館にはおよそ1年以上いました。談判の席に列席したり、暇なときには十勝地方まで歩いています。そのとき案内したのが蝦夷地探検家松浦武四郎です。松浦武四郎は後に北海道開拓使の判官になり、北海道という名前を作った人間です。この人間と一緒に松前藩とかアイヌとかを調べて歩くわけです。
 
 その最中の文久2年(1862)8月1日、松平容保公が京都守護職に任命されます。北海道に急使が来てすぐに帰れと命ぜられ、便船に乗って到着した品川から東海道を上京中の容保公を追いかけ三島で合流します。そこで「公用方に任ずる」といわれます。外交官兼秘書官のようなもので、容保公が守護職就任と同時に作った職制です。上級の侍は公用人、下級の侍は公用方といわれました。20人前後いたものと思います。容保公から秋月悌二郎とともに井伊直弼亡き後の彦根藩の動向を探れと命ぜられ先行します。探索の報告を受け、容保公は文久2年12月京都入りします。

 その頃京都では、自称勤皇の志士と称する不良侍たちが商人を狙っていました。そのような巷に入り、黒谷の金戒光明寺に本陣を張ります。彼(の任務)は007のようなもので、薩摩、長州の京都詰めの侍と仲良くなり、情報交換をやります。久坂玄瑞という長州の暴れん坊とも仲良くなり、あるとき道で会い、「関白にところに行っているか、行ってみろ」と紹介されたりしている。

 長州が騒動を起こして薩摩と会津が鎮圧した七卿落ちという事件がありますが、七卿の一人である東久世道禧が維新前夜という記録に面白いことを書いています。広沢安任に追われた公家さんの記述です。「会津に広沢富次郎(安任)という人間あり。有為の人物なり。その頃(の会津藩を取り仕切っていたの)は手代木直右衛門、秋月悌二郎なる人物なれどもこの二人は凡庸の人物にして秋月は学問あれど迂遠なり、手代木は無学にして少々俗才あり、広沢にあっては学識あって役に立つ男なり。大和行幸の勅命出るや秋月、手代木は大いに驚くのみ、なんともなすところを知らず。広沢はこれを聞きて我に一策あり、この局面を変じて見すべしという。」としてみごと大和行幸の長州の陰謀をつぶすのです。これだけ敵方からもほめられている人間なのです。

 姉小路公知という公家が田中雄平という薩摩の脱藩者に暗殺されます。田中雄平の潜んでいるところが分かり、広沢安任は京都守護職、京都所司代とともに逮捕に向かった。抵抗するものは切り捨てるということになっていましたが、広沢は自分に策ありとして一人で入っていく。田中は薩摩示現流の使い手です。「私は天皇の勅命で逮捕にきた。抵抗すれば直ちに切る。おとなしくいうことを聞けば侍なので縄をかけない。」その気迫に押され、田中は刀を差し出し連行されるのです。所司代で尋問が始まろうとしたときについて、「幕末会津志士伝」という本にすごいことが書いてある。「雄平やにわに傍らの大刀をつかみ、腹を二度刺す。二度ともその切先の背中に出ずるを見たり」と。その場にいた人間でなければそこまで書けません。

 元治元年(1864)佐久間象山が殺し屋に暗殺されます。そのころ広沢安任は象山と一緒になって、こんな危険な京の都に天皇を置いておくわけにはいかない、彦根に遷都しようという計画をたてていた。それを薩長の連中が聞きつけ、白馬に乗り黒い西洋マントを着て家に帰る途中の象山を襲う。象山は馬の首にしがみついて玄関にたどりつき式台に倒れこむ。そこに象山と会談のため広沢安任が来合わせた。奥から象山の奥さんが出てきます。奥さんは勝海舟の妹です。広沢安任は、「遺体を式台から奥の部屋に隠せ、式台の血を全部拭け、象山の藩には病気で亡くなったと届けよ(なぜかというとお家断絶になるからです、恥辱ですから)」と全部始末し、象山の家名を残すのです。

 文久3年(1863)から元治元年(1864)にかけ、薩英戦争で薩摩は英国に、馬関戦争で長州は英仏蘭米の4カ国に敗れます。自分たちの武器がいかに劣っているかということを身にしみて分かり、負けた英国から頭をさげて武器を買います。英国はアヘン戦争における清国と同様に、日本を席巻しようとする下心がありました。日本は長崎のほかに函館と横浜の3港を開港していましたが、更に京都に近い神戸を開けと要求し、フランスの軍艦などと共にデモを行った。これに対し在京47藩の留守居役により開港の可否に関する協議が行われました。薩摩の大久保一蔵も入っています。ほとんどが開港拒否という中で、広沢安任は、「西国であれほどの戦いをやって英国に負けた。いかにヨーロッパの文明が進んだものであるか、この文明を取り入れていかなければこれからの日本は生きていけない。」といって神戸開港の方向に逆転させてしまいます。それを知った岡山藩の花房義質という男が思わず激高して切りかかろうとし、それを止めたのが芸洲藩の同僚かあるいは大久保利通ではなかったかといわれています。

 この花房という男は明治になってから浅草などで広沢に似た人物が来るとわざとぶつかってけんかを売るほど広沢を憎んでいました。明治24年2月1日インフルエンザで広沢安任が62歳で死にます。その頃広沢安任は新宿角筈いまの伊勢丹デパートのあたりに100間×100間の牧場を開き、乳牛を育て牛乳やバターなどを作っていました。バターは日本郵船に納めていました。夏目漱石の先祖もあのあたりに牧場を作っていました。新宿御苑が農商務省の用地で近所だったのです。2月5日に葬式を出しましたが香典帳を見たら4日間に亘り毎晩花房が香典50銭を出している。あの憎き広沢の通夜に出ているのです。当時の人間たちを敵と味方という単純な区別をするわけにはいかないようです。
 葬儀では新宿角筈から青山の斎場まで行列が出ました。先頭が白馬に乗った明治天皇の供物、供花です。賊軍ですよ。恐らく会津藩士で明治天皇から供物・供花をいただいたのはそうないと思います。行列の先頭は榎本武揚、次いで牧野伸顕(大久保利通の次男)、渋沢栄一らでした。三沢の広沢牧場に墓がある。神道ですので火葬にしていません。その墓碑銘が土佐の谷干城です。みんな敵味方仲良かった証拠と思います。三沢で小さなささやかな葬式をやるのですがその見取り図が残っています。一角に乃木と書いてあります。乃木希典の弟です。千葉の御料牧場にいたが、兄とは似ても似つかぬ道楽男で乃木希典も手に負えなく、京都時代の薩長の士人との付き合いで知り合った縁で、三沢で牧夫として使ってくれといって広沢に預けた。彼はここで心を入れ替え、忠実な牧夫であったといいます。

 京都守護職詰めのとき忙しい身でありながら金戒光明寺の中に日新館の分校(学習院)を作ります。そこでヨーロッパの文明の知識を得させようとし、上級武士の子弟たちを何人かを勉強させるのです。その中から抜擢してヨーロッパ当時の英国とかプロシアとかに留学させる。その一人が山川浩です。

 戊辰戦争のとき広沢は、やっとの思いで京都から大阪にたどり着き、徳川慶喜と松平容保公が江戸に逃げ帰ったあと残った藩士を引率して和歌山に逃げます。ありったけの金で磯舟を集めさせ、傷ついた1800人を乗せ紀伊半島を回って津にたどりつく。津から親藩の桑名を経由し江戸に向かう。江戸に帰ってからは休むまもなく殿様の助命嘆願運動を始める。殿様は会津に帰るから残ってやるようにといわれ、南砂町に住み同士11名とともに助命嘆願運動をやる。尋常でいくわけがありません。そのうち江戸に西郷が入ってきます。明治元年閏7月、薩摩の益満休之助(ますみつきゅうのすけ)を使って江戸城に入り西郷に会おうとする。出てきたのは参謀の西郷の片腕とされた旧知の海江田信義(かいえだのぶよし)。「やはり生きていたか」、「助命嘆願書を持ってきた」、「少し待て」といって奥に引っ込む。官軍はいろいろな藩の集合体です。そこで広沢を知らない藩が「会賊」がいたといって捕まり、それまで執務していた会津藩上屋敷に収容される。さらに伝馬町に移される。伝馬町では首切り朝衛門がばっさばっさと首を切っていた。牢屋の中は惨憺たる状態であった。これを聞きつけたのは英国大使館のアーネスト・サトー一等書記官です。彼は、日本の侍は意地汚くて好色で酒飲みで、どうにもならないやつが多すぎるという批判を書いています。アーネスト・サトーの護衛役をやったのが野口富蔵という会津藩士であった。その縁があってあるとき江戸でアーネスト・サトーと広沢が会って話をしています。アーネスト・サトーは、「この男は会津藩士で、かなり腰をすえて日本の現状について話した」と書いています。広沢という人間の人となりを見破っていました。それで広沢が捕まり伝馬町にいることを知って、木戸孝允に「維新の大儀とは何か、これからの日本にとって有為な人間を殺すとは何事だ」といって彼を助ける。囚われていたため彼は鶴ヶ城の戦争には加われなかった。武士としての死に場所を選べなかったわけです。

 獄舎から解放され会津に戻ったとき、会津は28万石から3万石に落とされ、猪苗代の北か下北半島かどちらかを選べといわれていました。猪苗代の北の炭焼きをやるしかないような土地では、とても1万7千人が食べ暮らせるわけがありません。そのとき広沢は土地があるのだから下北に行こうと皆を説得し、反対を押し切って下北に行くのです。そのうちの一部は陸軍省が屯田兵のつもりで北海道に連れていった。長万部とか瀬棚に押し込められ惨憺たる目にあいます。また樺太まで行かされようともしています。

 明治9年7月の天皇行幸で天皇がまだ三沢にいるとき、大久保利通は先行して野辺地に泊まります。朝5時に起き、県の知事を連れ馬で自分から三沢の牧場まで広沢に会いに行く。相手は賊軍である。広沢は牧場の入り口で、野良着で腰に大きな鎌をぶら下げて待つ。一晩泊まりで話し込みます。酸っぱくなったドブロク、固くなった身欠きにしん、古くなった豆漬、それしかなかったそうです。それを大久保に食わせました。大久保は、「農商務卿をやってくれないか」というが、広沢は「野に尽くす」と言って断ります。
 明治14年には松方正義大蔵卿が来て1週間泊まった。彼もまた農商務卿をやってくれないかと頼む。これも断ります。
 そのあと谷干城農商務卿が北海道開拓使長官をやってくれないかと要請するがこれも断る。

 彼には別の希望があった。彼は探検家になりたかった。明治18年畜産協会を作ってそこの理事長のとき東京で渋沢栄一日銀総裁に会い、「1800円を貸せ」「何に使う」「南洋探検をやりたい。」「未だ時期が早い、もうすこし待て。」といわれる。彼の望みは実現しなかったが3代目の春彦という人間がスマトラ島に木材の輸入会社を作る。2代目の弁二(べんじ)はやはり畜産協会に入り、アメリカに行って種馬25頭、牛や豚・鶏を輸入している。今の日本畜産業の基礎を作り競馬の振興に尽くし東京獣医学校長に就任したのは2代目の弁二でした。
 たしかにつらい、つらい思いをしている。斗南藩というのは3万石といいますが、実質は7千5百石しかなかった。どうして暮らせますか。だから鳩侍とかいろいろなことを言われ、刀をつぶして鍬を作ったほどの苦労をしました。
 まだまだいろいろな話があります。
 いろいろな会津藩関係の本がありますが、非常に珍しい本を見つけました。熊田葦城著「幕府瓦解史」という本で、大正4年に刊行されています。報知新聞の記者が連載したものをまとめたものです。ここに「凡そ著書は勝者に厚くして敗者に薄きの感なきにあらず。」と書かれ、この本「幕府瓦解史」は逆である、つまり敗者に厚くしていると言っています。このあとがきを最後に紹介したいと思います。

久しきものは倦み、倦むものは衰ふ、是れ勢いなり。
勝つものは驕り、驕るものは亡ぶ、亦た是れ勢いなり。
幕府の倦みて、驕るや久し、その前途唯衰亡あるのみ。
幕府衰亡の勢既に成る、故に之を倒すは易く、之を支ふるは難し。
薩長は其易きを為さんとす、故に労少なくして能く功を成す。
会桑は其難きものを為さんとす、故に労多くして、却て罪を招く。
然らば即ち薩長は智にして、会桑は愚なるか。
否な、何ぞ然らん、唯其境遇、位置の之をして然らしめたるのみ。
会桑をして薩長の位置に立たしむれば、亦た能く薩長の功を成さん。
薩長をして会桑の境遇に在らしむれば、亦た終に会桑の罪を招かん。
勝つもの以て誇るに足らず、敗るるもの以て悲しむに足らざるなり。

夫れ六国亡びて二十年、秦も亦た亡ぶ。
今や薩長権を執ること実に四十年、豈に勝ちて驕り、驕りて亡ぶるの勢いなきか。
嗚呼驕るもの久しからず、和漢皆然り。

 つまり勝った人間だけの世なのかということなのです。負けた人間ほどちゃんと国を考えていたということをこの新聞記者は書いています。
 今数ある本はすべて薩摩や長州のいいことばかり書いています。この本の識語を紹介して広沢安任の話をしめくらせていただきます。
 ありがとうございました


懇親会の部
 懇親会は渡部由枝さん(会津若松市出身)の乾杯で始まりました。
 途中アトラクションとして会津若松市役所を退職後故郷を歌う歌手としてご活躍中の 内城直(うちしろなお)さんによる歌が披露され、新譜「会津三泣き」が紹介されました。
 〆は内城直さんの息子さんで会員の芳賀沼直之さんにより行われています。

乾杯の渡部由枝さん 故郷を歌う歌手 内城直さん 〆は 芳賀沼直之さん


  10/4/20
   ”みやぎ会津会 お花見” を開催しました
 
 「みやぎ会津会」では初の試みとして、4月11日(日)正午から、仙台市太白区の八木山ベニーランドで”お花見”を行いました。
 「3年目を迎え、例会だけでは活動がマンネリ化するのではないか」という役員(穴澤幹事)の発議により急遽計画、開催したものです。短い準備期間にもかかわらず、19名の方が参加しました(会津若松から高橋信顧問も駆けつけてくださいました)。
 穴澤幹事によりますと、「日本気象協会の3月段階の予想では、今年の仙台の桜の見頃は11日前後とのことであった」とのことですが、気候は気まぐれ、蕾は固く閉じていました。
 花はいまいちであったものの途中日差しがさす日和となり、会場に準備されたお花見セットの他、会員持参の自家製のおかずも肴に、宴はおおいに盛り上がりました。
 会費は当初3,000円を予定していましたが、八木山ベニーランド様のご好意で入園が招待扱いとなり、2,000円に引き下げられています。

参加のメンバー 酩酊気味の方もおられます?
← 桜は蕾でしたが 梅が満開でした





↓ 花冷えを見込み厚着の方が目立ちました



  10/3/12
第3回 平成22年度みやぎ会津会総会を開催しました
【総会】 
総会冒頭の須佐会長挨拶
事務局・金田、総合進行役・穴沢の両氏
総会議長席の須佐会長
総会の会場の様子
新役員を代表し山口景樹幹事が挨拶

 1月25日(月)17時30分から、仙台ガーデンパレス(仙台市宮城野区榴岡4-1-5)鳳凰の間において、第3回平成22年度みやぎ会津会総会を開催しました。総出席者は81名でした。

 総会は、須佐尚康会長の開会挨拶の後会則に基づき会長が議長となり議事が進められました。総合進行役は穴澤鉄男幹事が務めています。

 総会には5件の議案が提出され、金田事務局長が議案を説明、いずれも原案のとおり承認されました。
提出された議案の概要は以下のとおりです。


1号議案 平成21年度事業報告

平成21年1月26日に第2回総会開催
 例会を3回開催
  第4回:5月 61名参加、
  第5回:8月 29名参加、
  第6回:11月 63名参加

  うち第5回は、「ふるさと訪問」で、会津能楽堂、
  本郷瀬戸市、大内宿、慧日寺などを訪問

 他の会合への参加
 (会津能楽堂竣工記念式典、東京会津会など)

 役員会を6回開催し例会の企画等を審議

2号議案
 平成21年度収支決算報告並びに監査報告(単位:千円)

収入
 前年度からの繰越金194.391、年会費411、寄付金200、
 総会・パーティ会費328、能楽堂寄付賛同金73、
 役員協力金28、例会費(3回分)1,096
 合計2,330.391

支出
 総会・パーティ費432.46、
 例会費(3回分)1,293.016

 その他(ご祝儀、通信費等)252.86、
 次年度繰越352.55、
 合計2,330.391


3号議案 平成21年度事業計画案
平成22年1月25日に第3回総会を開催
平成21年5月、9月頃、秋頃に例会を開催
 このうち秋頃の例会はふるさと訪問を企画する

4号議案 平成21年度予算案(単位:千円)
収入
 繰越金352.055、年会費501、総会・例会会費1,200、
 
合計2,053.055

支出
 総会・例会費1,400、事務費150、
予備費253.055
 次年度へ繰越250、
 合計2,053.055


第5号議案 役員の改選
 今年は役員の改選期にあたります。事務局一任の発言を受けて事務局案が提案され承認されました。今回新たに選任された役員は4名、退任された役員は2名です。
 新しい役員名簿はこちらをご覧ください。


【講演会 
 総会に引き続き、「会津の人・心・歴史」と題して作家 星亮一氏による講演会が開催されました。
星亮一氏講演の概要は以下のとおりです。(要旨)
星 亮一氏 プロフィール
1935年 仙台市生まれ
東北大学文学部国史学科卒
日本大学大学院総合社会情報研究科修士課程終了
歴史作家
主な著書
「会津籠城戦の三十日」、
「アンガウル、ペリリュー戦記」
(以上 河出書房新社)
「坂本龍馬その偽りと真実」(静山社文庫)
「謀略の幕末史」(講談社+α新書)
「偽りの幕末動乱」、「偽りの明治維新」
(以上 だいわ文庫)
「幕末の会津藩」、「奥羽越列藩同盟」、「会津落城」
(以上 中公新書)
「山川健次郎伝」、「後藤新平伝」
(以上 平凡社)
「龍馬が望まなかった戊辰戦争」(ベスト新書)
「鳥羽伏見の砲声」、「会津藩斗南へ」、
「仙台戊辰戦史」、「白虎隊と二本松少年隊」
(以上 三修社)
など
職歴 福島民報記者、福島中央テレビ報道制作局長
「宮城県仙台人」と自己紹介
聞き入る会員
「白河から撤退」と手振りを交え熱弁
   
 私の父は丸森町、母は亘理の出身で、私は宮城県仙台人と思っている。いまは福島県郡山に住んでいる。会津との付き合いは、20代の福島民報記者時代に会津若松に転勤になってから。初めは、どうして会津に転勤になったのかと嘆いたが、行ってみたら非常に良いところで皆さんから親切にしていただきすっかり会津のとりこになった。あの時会津に行かなかったら今の私はなかったと思っている。

 テレビで話題になっている坂本竜馬は長崎時代に会津人と付き合っている。神保修理という会津藩家老の息子で、京都から長崎に派遣されていた。二人は長崎の居酒屋で意見を交わし、「会津は薩長嫌いで話がかみあわないが、神保修理は非常に幅のある男で珍しい男だ」と竜馬は書いている。坂本竜馬は自由人で、日本の中で喧嘩をしていてもしょうがない、薩摩、長州も会津も仲良くして新しい日本をつくろうと考えていた。大政奉還だ。会津藩とも協議し、「新しい日本をつくるために薩摩、長州や会津の垣根を乗り越えていこう、会津藩も協力してくれ」といい、会津も「わかった、我々もいつまでも幕府側にこだわっているわけじゃない」といい内々話を進めていた。会談には竜馬と後藤象二郎、会津藩の重臣が参加、その中に神保修理が加わっている。
 小松帯刀という薩摩藩家老が京都におり、会津藩、幕府との話し合いに入っていた。なかなかの人物で、「竜馬の意見に賛成だ。薩摩も保証するから徳川慶喜が大政奉還した後は慶喜をとりあえず初代の総理大臣として新しい日本を作り、会津藩も官僚に入ってもらう」といっている。竜馬はそういう工作を進めていた。土佐の話だけじゃ危ないが、薩摩も同意しているということで会津藩は了承、徳川慶喜も了承して将軍職の辞表を天皇に出した。大政奉還だ。これがくせものだった。簡単に辞表を出しちゃだめ。辞表を出したらただの一大名になってしまう。大政奉還を出したとき裏にいたのが西郷隆盛とか大久保利通だ。小松帯刀と坂本竜馬の役割は、慶喜をだまして大政奉還をさせるまで。大政奉還の後竜馬は殺され、小松帯刀は京都から鹿児島に追われる。西郷隆盛、大久保利通は大政奉還後の政権構想など私たちは知りませんということになった。

 その後、薩摩が軍事クーデターを起こし、徳川慶喜と松平容保の京都追放を決めている。決め手になったのは天皇陛下の勅許だが、天皇陛下が書いたものでも印鑑を押したものでもない。西郷たちで勅許を作り天皇陛下の命令だ、このとおり天皇陛下の許可も得ているといってクーデターを起こした。
 だましたほうが悪いのか、だまされたほうが悪いのかという議論はあるが、この場合、幕府は軍隊を京都に派遣し、様子を見ながら大政奉還を行うといった策が必要だったと思う。ところが徳川慶喜は独断に近い形で大政奉還を行い、江戸で何を血迷ったのだと驚いた時には既に遅かった。大騒ぎになって幕府の軍隊が京都に駆けつけ、鳥羽伏見の戦争が起こる。これがあっという間に負け、事実上幕府は崩壊した。松平容保は京から会津への手紙で、「我々のこれまでの努力はみな無駄になった。これほどこけにされた以上は最後の一兵まで戦う」といっている。会津の人たちは京を追われ、江戸に戻った。

 江戸では、勝海舟と西郷隆盛の会談が始まる。西郷は勝の子分、竜馬も子分だ。勝海舟はある時から反体制派で、幕府は潰れたほうがよいと公然といっていた。彼は旗本であるが下級なので絶対トップにはなれない、海軍大臣になろうとしても次官、局長止まり。それは身分が低いためで、身分制度の強い幕府は駄目だといっていた。竜馬、西郷に、こういう幕府は倒したほうがよいと言っている。竜馬も西郷も驚いて、この人が言うのだからひょっとするかもしれないと思っていた。
 私は次のように推理している。薩長はいまのお金にして何千億円という金をつぎ込んで倒幕運動をしていた。鉄砲一挺でも外国から買うから膨大な金がかかる、軍艦、弾薬、兵員への手当てなどに、何百億円ものお金を使っている。戦争は終われば戦利品がないと始末がつかない。部下たちへのボーナス支払い、身分の保証その他もろもろかかる。その意味で西郷は困っていた。それからが問題だ。勝は、「東北があるではないか、会津藩が23万石、仙台が62万石、占領すれば相当な価値になる。向こうに行って御覧なさい」と言ったのではないか。「京都で騒乱が起こったのは会津藩のせいだ、会津藩は幕府の名代として京都に行ったが薩摩、長州とのトラブル続きになりこのような事態になった。混乱の責任は会津藩にある。どうぞ向こうに行ってやってください」ということになったと思う。

 その後会津藩は会津に帰れと命令が出た。京都から追われ、江戸からも追われて会津に戻ることになった。江戸の市民は会津に同情的だった。どこから考えても会津のほうが正義だ、薩摩長州は謀略で偽の勅書を作り、罪を会津に擦り付けたと。
 そして軍勢は会津に攻めてくる。まず仙台にきて、奥羽鎮撫総督府・世良修蔵は仙台藩に会津を攻撃しろと命令を出した。仙台藩は、なぜ我々が会津を攻撃しなければならないのか、でも官軍様の言うことだから半分くらいは聞かなければならないかとしたものの、おかしい、会津が朝敵という理不尽な話はないとして会津支援に立ち上がる。会津を支援し、薩長に対抗する新しい政権を作ろうと仙台藩は政権構想をたてた。北方政権である。天皇に輪王寺宮を擁立し、閣僚名簿を作り、白河、新潟から北海道を含めて新しい国家にしようとし、外国にも連絡する。独立宣言である。すごい構想だった。こうして日本に当時2つの国ができた。薩長政権と仙台を盟主とする北方政権。
 初戦は白河だというので仙台から大部隊を派遣した。会津と連合軍をつくり、絶対ここからは薩長をいれない、新潟のほうは河合継之助が頑張って入れないということになった。こちらは新潟も入れて七県、薩長は二県である。数の上からみても勝つといったのだが、戦争が始まったら一日で負けてしまった。大誤算である。戦争は勝たないと駄目、勝てばお金も人も寄ってくる。負ければ逃げる。会津藩総督は家老の西郷頼母、松平容保と仲が悪くて、京都守護職時代は蟄居させられていた。会津藩は越後に軍隊を出して優秀な人材がいなくなっていた。松平容保は人が良い。西郷頼母に機会を与えようとしたのかもしれない。仙台藩が援軍を出したので安心してしまったところもある。攻めてくる薩摩を主体にした兵隊は千人弱、こちらは三千人、堂々と迎え撃つと西郷頼母はいったが、新選組などの戦闘経験者は、白河城のような狭い城に籠るのはだめだ、那須方面にゲリラ部隊を出して夜襲をかけるべしといった。ところが西郷頼母はならぬ、会津武士はそういう卑怯な真似はしない堂々と迎え撃つとした。
 薩摩の伊地知正治は住民に金を与えて城の中、裏道などを調べ上げ、住民を先導役にして、夜白河の町の中に7連発銃を持った狙撃部隊を160箇所くらい配置した。朝戦争が始まり、会津・仙台軍隊は勢い込んで攻めるが、周りに狙撃兵が潜んでいることは知らない。木の陰、土蔵の陰などに潜んでいる狙撃兵が会津・仙台兵を横から撃つ。まるで鶏を撃ち殺すような状況だったという。無警戒なまま裸で飛び出して横から撃たれてしまう。
 作戦が不十分だったのではあるが、仙台藩の一部の者は鎧兜をつけ、偉い人は赤い陣羽織などを着て行っている。向こうは、陣羽織をつけた指揮官から撃てという指令を出しているので指揮官が最初にやられる。兵隊は指揮官がいないものだから烏合の衆になってしまう。また、仙台藩の陣地は旗を立てており、そこを目標に大砲に撃たれた。仙台の戦争体験は大坂冬の陣まで。それ以来戦争がなかった。それに対し向こうは、幕府や外国の軍艦と戦争していて百戦錬磨だ。戦略も外国の戦術を翻訳して勉強している。小銃隊は隠れて撃て、立っては危ないから腹ばいになって匍匐前進しろと。ところがこちらは目立つようにのぼり旗を持ち、赤い陣羽織を着て真っ直ぐ走るという戦国時代の戦法だ。だから一瞬のうちにやられてしまった。
 仙台藩はうろたえた。最初に大変なことになったと考えたのは水沢の兵隊。あっという間に2・30人が殺された。こちらは火縄銃、向こうは七連発銃、とてもやっていられない、会津には申し訳ないけどなにか策がないかと考え、南部が寝返り水沢に攻めてきた、大至急帰るべしという策略の指令書を出した。白河で持ちこたえるような戦法をとっていれば水沢の人が逃げるようなこともなかった。
 ここは会津藩がもっと頑張るべきだった。会津の人にはやや厳しい言い方になるが、秋月悌次郎という会津の学者は「一番戦闘経験のある会津があそこで頑張るべきだった」と言っている。戦後、戦犯として東京に送られ、白河を通るとき、「ここが全てだった。ここで勝ってさえいれば我々の運命は違っていた」と嘆き、文章に残している。会津は米沢に援軍を要請にいったが、米沢は、「我々は会津を信じて同盟に加わった。信じた会津が初戦で敗れ応援を求めるというのはどういうことだ」といって、応援を出してくれなかった。

 白河というのは昔から鬼門だ。平泉もその昔も、あそこを突破されるとずるずるといってしまう。今回もそういう状況だった。結局、仙台藩は藩内が割れ、米沢も割れてしまう。明確にやめたと言ったのが秋田藩。新潟では新発田藩が同盟を離脱し、中通りでは三春藩が後ろから鉄砲を撃ったりするので最終的には列藩同盟は瓦解する。西軍は仙台に使者を送り、仙台藩は戦線を離脱した。
 仙台が引いたので薩長はずいぶん助かった。恩返しに、東北線を早くひいたり、東北大学を作ったり、第二師団をつくったり、第二高等学校を京都の前に仙台に持ってきたり、ずいぶん仙台に投資している。仙台の戦線離脱はある種の判断力だといえなくもない。市街戦をやって会津のようになるよりはという判断が仙台にあったのだろう。それはそれでやむをえない。
 そういう中で最後に残ったのは会津だけだった。我々は義のために全員討ち死にの覚悟で戦う、全ての判断を後世に託す、死んで百年後の審判を待つとして千人以上が籠城戦に入った。これはすごいこと。
 籠城戦には婦人子供もいっぱい入っており、皆どんどん死ぬ。最後は、容保の判断で私の命を出してもいいから開城しようということになった。

 戦争は終わった。日本人同士の戦争だから、会津も良くやった、あとは仲良くしようとなるのが普通なのだが、埋葬は許さない、全員下北半島に飛ばすということになり、会津の人たちはいまだに長州とは絶対に和解をしないと頑張っている。私は仙台人だから、いつまでも長州反対っていうこともどうですかね、などというと、お前は仙台の癖に余計なことを言うなといわれる。若い経営者と話し合うと、この線で行ったほうが良いとみな言っている。「仲良くしてにこにこ手なんか握って何がいいのか。先人が遺書まで書いて戦い抜いたということを大事にするのが会津のアイデンティティであり、絶対に欺瞞に満ちた長州を許さない。これは当然だ。それを称えることによって、会津に行きたいと思う観光客が年間何十万人と来る。飯盛山には線香の香りが絶えない、このブランドを下げる必要ない」という意見で大体一致している。一つの国家的な犯罪であると私も思っている。日本政府が謝罪をしてあの処置は誤りであったということを言わない限りは、簡単に長州と和解はしないと私は感じており、会津の人たちはそう思っている。

 白虎隊士で自刃後甦生した飯沼貞吉さん、本日子孫の方が会場にお見えになっているが、彼は晩年を仙台で過ごされている。蘇生後3年間ほど所在地が不明だったが、最近の調査で、長州藩士楢崎頼三に連れられ長州藩・美祢に行ったという説が出て、私も美祢に行って関係者に話を聞いてきた。これは事実と思う。会津藩の中で長州藩・薩摩藩の世話になって勉強した若者は何人もいる。当時会津には勉強する機会が全くなかったし、食べるのさえ不十分だった。柴五郎の「ある明治人の記録」では、履く物がなくて冬裸足で歩いていたとか、とにかく大変苦しい生活だった。チャンスを得るためには、薩摩であれ、長州であれ飛び込んでいくという若者が何人かいたのだ。飯沼貞吉がどう考えたのかわからないが、彼は長州で楢崎頼三の援助を受けて勉強し、逓信省に入ったのではないかと思っている。長州の人が皆悪いというわけではない。山川健次郎先生も長州藩の奥平謙輔の書生になって勉強を始めている。
 国家的な犯罪と個人的な友情、付き合いはまた別であり、そういう意味で長州とも話し合える余地はあると思う。

【懇親会
 講演会の後はお楽しみの懇親会。
 今年もご来賓として、会津から首長さんが駆けつけてくださいました。(議会開催中の自治体が多く、例年より少ない参加になりました。)

 出席されたご来賓(敬称略)
  会津美里町町長 渡部英敏
 金山町町長   長谷川律夫
 磐梯町副町長  石川靖

 
また、昨年に引き続き「通研ジャズクラブ」のメンバーがアトラクションとして参加していただき、懇親会に花を添えていただきました。
 懇親会の様子は、次の写真をご覧ください。

  
懇親会開会の挨拶は副会長に就任した
梅宮栄八郎さん(会津若松市出身)
    乾杯は新たに監事に就任した
金澤孝司さん(喜多方市出身)
挨拶される長谷川律夫金山町長 挨拶される渡部英敏会津美里町長
挨拶される磐梯町副町長の石川靖さん 今年も通研ジャズクラブによるジャズ演奏
懇親会会場の様子 自社発行の映像集「昭和の情景」を紹介する小林穂波さん
(会員、仙台放送)
星亮一氏著書のサイン入り即売会
お持ちになった60冊弱はすべて売り切れ
「玉蟲左太夫の世界」について紹介する乳井昭道さん
(非会員、戊辰戦争研究会=星亮一さん主宰=会員)
星亮一氏と懇談する会員 中締めは新たに幹事に就任した山口景樹さん