仙台商工会議所初代会頭 遠藤敬止翁についてご紹介します。
 
会津17市町村へのリンクを掲載します。


『みやぎ会津会』は、宮城県在住の会津出身者や縁のある方が、
郷里を愛し、その素晴らしさを将来に伝えるための同郷会です。


【みやぎ会津会への入会方法について】
入会をご希望の方は下記①~⑥の必要事項についてメールに記載の上、あて送信願います。
①氏名(ふりがな)、②生まれた年、③住所、④電話番号(自宅、携帯電話、勤務先)
⑤勤務先名、⑥会津とのかかわり(出身地など)

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新着情報
2024/7/1 遠藤敬止翁120年忌法要に参加しました。(2024年6月15日)
2024/7/1 京都会津会法要に参加しました。(2024年6月9日)
2024/5/3 第17回総会、交流・懇親会を開催しました。(2024年4月13日)
 
 
今年度の事業計画
(終了) 第17回総会、交流・懇親会 2024年4月13日(土) ホテルメトロポリタン仙台
(終了) 京都会津会法要 2024年6月9日(日) 京都府京都市
 注目! 7月例会(ビアパーティー) 2024年7月30日(火) 北の味覚処「北の一」
  会費5,500円 18時30分~ 仙台市青葉区一番町4-4-12
  10月例会(芋煮会) 2024年10月18日(金) 仙台市内
  1月例会(新年会) 2025年1月31日(金) 仙台市内
 
 

遠藤敬止翁120年忌法要に参加 2024/7/1up
 令和6年6月15日(土)、会津若松市内にて遠藤敬止翁120忌法要に参加しました。本会からは須佐会長、金田幹事長はじめ役員計8名が参加しました。また、遠藤敬止顕彰会新城会長、会津松平家14代当主松平保久様、室井照平会津若松市長、会津若松商工会渋川会頭、会津弔霊義会、七十七銀行、東邦銀行など50名程の方々が御参加されていました。
  

 

 

 

 

 

 

 

京都会津会法要に参加 2024/7/1up
 令和6年6月9日(日)、京都府京都市内にて京都会津会法要に参加しました。本会からは須佐会長、菅沼幹事(副事務局長)が参加しました。また、東海会津会から大原会長、長崎会津会から高久会長、栗原会津会から佐藤会長、会津弔霊義会から鈴木理事長、会津若松商工会議所から渋川会頭などが御参加されていました。
  

 

 

 

 

 

 

 







第17回総会、交流・懇親会を開催 2024/5/3up
 令和6年4月13日(土)にホテルメトロポリタン仙台にて第17回総会、交流・懇親会を開催しました。
 当日は、100名を超える多くの会員の皆様にご出席いただきました。また、松平保久会津松平家第14第当主、郡和子仙台市長を御来賓に迎え、盛大に開催いたしました。
 


総会の様子


須佐会長の挨拶


松平保久会津松平家14代当主の御挨拶 
 

郡和子仙台市長の御挨拶
 

六華亭遊花師匠の講演会
 

末廣酒造新城猪之吉会長による乾杯
  

会津の各市町村長様の御挨拶
  

会津の各市町村議会議長の御挨拶
 

遠藤 敬止
 略史
参考文献(1)
 遠藤敬止は、慶応義塾に学び渋沢栄一に見い出されて第一国立銀行に勤務する。明治11年(1878年)第七十七国立銀行設立にあたり、渋沢の命により派遣され、教授役となって設立の指導にあたる。明治14年(1881年)、選ばれ30歳にして第七十七国立銀行第2代頭取となり、逝去するまで通算約23年間頭取を勤めた。

 明治23年(1890年)、鶴ヶ城払い下げの議に際し私財を投じて旧藩主松平家に献納した。昭和9年(1934年)に鶴ヶ城跡地が国の史跡として指定され、跡地すべてが残っているのは遠藤敬止の献身的な浄財申し入れがあったればこそといわれている。

 嘉永4年(1851年)、会津藩士遠藤清直の長男として江戸会津藩邸に生まれる。若くして才能を認められ、幕府開設の洋学教育施設・後の東京大学の前身である開成所に入学、英語を学ぶ。
 18歳のとき鳥羽伏見の戦いにおける幕府軍敗走の報に接し、会津軍に加わり各地を転戦、身に数か所の傷を負う。鶴ヶ城に入り籠城戦を戦い、開城とともに幽閉され猪苗代から江戸増上寺に移される。
 明治2年(1869年)赦免され、早稲田北門舎の英語教授補助をして生活の足しにし、赤貧のなか勉学に励んだ。明治3年(1870年)20歳で久留米中学の英語教授に招かれる。翌年上京し、「国家富強には商業の発達が必要」として慶應義塾に入り、簿記、経済、欧米商業の実際を学んだ。
 明治6年(1871年)大蔵省銀行事務講習所の創立に伴い選ばれて講師となり、簿記実習の標本、為替手形類の標本を制作、「銀行実験論」を朋友とともに共訳するなど活発な活動を開始した。

 渋沢栄一の命による仙台赴任後は、明治12年(1879年)設立の宮城商法会議所(現仙台商工会議所)の初代会頭に就任、爾後第七十七国立銀行頭取を勤めながら幅広く経済活動を展開、奥州銀行同盟の発足、塩釜水産会社・奥州水産運輸会社の立ち上げなど、東北経済会の発展に大きな功績を残した。會津銀行(現東邦銀行)創立に際しては発起人の一人として指導にあたり、創立後は相談役に就いている。 
 第七十七国立銀行の株式会社への改組に奔走してこれを成し遂げた明治31年(1898年)2月、17年間勤めた第2代頭取を辞任するも同年9月第4代頭取に就任、㈱七十七銀行の経営立て直しに努め、経営基盤を固めた。
鶴ヶ城北出丸の頌徳碑
頌徳碑碑文
七十七銀行寄贈の頌徳碑説明板

 この間遠藤敬止は、経済界だけにとどまらず、衆議院議員7期、貴族院議員1期を務め、広く政財界で活躍した。その事績は、渋沢栄一や大倉喜八郎(大倉財閥の創始者)ら明治の経済人90名の伝記を収録した「商海英傑伝(明治26年刊行)」第2編にも収録されている。

 甦生白虎隊士飯沼貞雄との交流もあったようである。
 弟の嘉龍二は白虎隊寄合1番隊士で熊倉の戦いで戦死、その墓は、飯盛山白虎隊19名の墓に向かって右側にある戦死者31名の墓の中にある。少し離れた個所に遠藤敬止による追悼の撰文碑が立っている。

 明治23年、陸軍省から旧会津藩主松平家に鶴ヶ城払い下げの議が出されたとき、遠藤敬止は「この城跡は戊申の逆境に当たり弾煙硝雨の間に幾千の魂魄を留めし古戦場なれば、これを保存して千古の記念になさざるべからず」として私財を投じ、旧藩主松平家に献納した。

  この浄財申し入れの事実が昭和44年に発表され、明治100年にあたる昭和45年(1970年)10月、鶴ヶ城北出丸に「頌徳碑」が建立された。揮毫は松平家13代の故松平保定氏。
 昭和50年(1975年)12月、遠藤敬止顕彰会が発足、以後毎年命日の615日に碑前祭を行い遺徳を顕彰している。

 七十七銀行頭取在任中の明治36年(1903年)6月胃癌のため逝去。54歳の若さであった。
 
墓所

 墓は仙台市北山新坂町
浄土宗充國寺の本堂裏手にあり、墓の裏面には経歴撰文が刻まれている。

 墓に向かって左側には真新しい「遠藤敬止翁供養塔」が建立されており、裏には
「遠藤敬止翁百年忌法要記念 平成
1565日 遠藤敬止顕彰会、仙台商工会議所、㈱七十七銀行、在仙福島県人会、㈱東邦銀行
と刻されている

【参考文献】
1)㈱七十七銀行社史
2)「遠藤敬止翁」 遠藤敬止顕彰会
3)「鶴ヶ城跡地払い下げ」 河野十四生
   会津人群像第282014年11月26日 歴史春秋社