飯沼貞吉(後、貞雄) |
略史 |
慶応4年(1868年)8月22日、会津藩白虎隊士中2番隊37名の1員として戸の口原に出陣する。翌23日、敵の圧倒的勢力を前に退却、飯盛山にて自刃するも救出され奇跡的に蘇生する。爾後工部省(後に逓信省)に職を求め、電信技術者として功績を残す。
白虎隊については多くを語らなかったというが、白虎隊悲劇の生き証人として事跡を後世に伝える。
嘉永7年3月25日(1854年4月22日)、会津藩士・飯沼時衛一正(家録450石)の次男として郭内に生まれる。白虎隊は数え16歳、17歳とされたが15歳の貞吉は嘉永6年生まれの16歳と偽って申請、受理されている。
父一正の妹千重子は会津藩家老西郷頼母に嫁ぎ、白虎隊士が飯盛山で自刃した慶応4年8月23日、頼母の登城後西軍が城下に押し寄せる中、頼母の母、義妹2人、5人の娘、親戚12人と共に一家21人が自邸で自刃したことで知られる。
母ふみは、家老西郷頼母と祖を同じくする西郷十郎衛門近登之(家録350石)の3女。山川三兄弟妹として有名な山川大蔵(浩)、山川健次郎、山川咲(捨松)は、母ふみの長姉えんが嫁いだ家老職山川兵衛尚江との間の子で、飯沼貞吉とは従兄妹にあたる。
救出され蘇生した飯沼貞吉は約1か月の間敵の手を逃れて塩川、喜多方で治療、その後猪苗代謹慎所に出頭する。謹慎後明治3年11月、徳川家静岡学問所に入学するが、謹慎中の約2年間、長州藩士楢崎頼三に連れられ山口県美祢市に滞在したとの説がある。明治4年11月静岡学問所は廃止され、旧幕臣藤沢次兼の書生となって上京(この時期「貞雄」と改名)、明治5年電信修技校(電信寮(工部省の電気通信教習所)の予備校)に入り、同年6月工部省電信寮技術等外見習下給として採用される。
以後各地を転任、功績を重ねて昇進し、明治30年(1897年)仙台郵便電信局建築課長、明治38年(1905年)札幌郵便局工務課長、明治43年(1910年)仙台逓信管理局工務部長を歴任して日本の電信電話網の整備・発展に尽力し、大正2年(1913年)60歳にて退官した。退官時高等官3等、同年正五位勲四等に叙せられる。
この間、日清戦争では明治27年6月25日大本営付歩兵大尉として朝鮮半島に出征、釜山・京城間の軍用電信線路架設に従事して困難の中これを成し遂げ、日本軍捷報の内地への速やかな伝送を可能せしめた。
また貞雄は、貴族院議員となっていた山川浩と連携して会津本郷焼の性能を向上させた電信線用碍子の開発を指導し、会津碍子として明治24年以降逓信省、陸軍省から数万個の受注に成功し、会津の産業発展に大きく貢献している。
退官後は引き続き仙台に居住し、盆栽、囲碁を趣味とし、和歌の道にいそしんだという。昭和6年(1931年)2月12日、感冒に肺炎を併発し仙台にて没した。享年78歳。墓所は仙台市北山輪王寺。
母ふみ(雅号:玉章(たまずさ))、父方叔母西郷千重子、飯沼貞雄の和歌を紹介する。
母ふみ
(貞吉の出陣に際しよみてつかわしける)
梓弓向かう矢さきはしげくとも 引きなかへしそ武士の道
叔母西郷千重子
(辞世)
なよ竹の風にまかする身ながらも たまわぬ節はありとこそきけ
飯沼貞雄
(戊辰を回顧し)
すぎし世は夢かうつつか白雲の 空にうかべる心地こそすれ
(皇太子殿下(昭和天皇)の白虎隊遺跡台臨の報に接し)
日の御子の御かげ仰ぎて若櫻 ちりての後も春をしるらん |
墓所 |
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仙台市北山・輪王寺 飯沼貞雄の墓
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会津若松市飯盛山 飯沼貞雄の墓
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飯沼貞雄の墓は仙台市北山・曹洞宗輪王寺の北東山頂近くにある。
戒名は、「白厳院殿孤虎貞雄居士(はくげんいんでんここさだおこじ)」
明治維新後伊達家の庇護を失った輪王寺は明治9年野火に類焼し仁王門のみを残して灰燼に帰し、荒廃していた。明治36年本山から派遣された福定無外(ふくさだむがい)和尚が辛苦のうえ再建に尽力、大正4年に本堂と庫裏を完成させ、後に見事な庭園を建設した。
この福定無外和尚は飯沼貞雄の墓を昭和7年3月に完成させ、墓誌に貞雄の略歴を刻み、白虎隊を称える漢詩を添えた。
貞雄逝去後、飯盛山白虎隊墳墓への合祀論が起こったが、地元会津の反対で実現しなかった。
没後26年、戊辰戦役90周年にあたる昭和32年、飯盛山鶴ヶ城を望む地に飯沼貞雄の墓碑が建立され、遺髪と歯が埋葬された。建立したのは前島会(郵便の父前島密の精神を伝承する会、逓信省は郵便と電信電話を所管した)。除幕式には、松平容保公孫松平勇雄(参議院議員、福島県知事)、横山会津若松市長、飯沼一省(貞雄の弟関弥の長男・元東京都長官)、前島会会長、仙台郵政局長、東北電気通信局長などが参列、盛大にとり行われたという。
戊辰120年の昭和63年秋、飯盛山飯沼貞雄の墓地に、上述の和歌「日の御子の御かげ仰ぎて若櫻 ちりての後も春をしるらん」の歌碑が建てられた。建立発願は会津本郷町町会議員の方々。貞雄の尽力で会津本郷焼が電信線用碍子として大量調達されたことに対する感謝の気持ちであろう。
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仙台市錦町 飯沼貞吉終焉の地碑 |
仙台市錦町には、飯沼貞雄が逓信省を退職後居住した地に「蘇生白虎隊士飯沼貞吉終焉の地」の碑(1991年)と貞雄の直系孫3人の建立になる説明坂(2013年)が設置されている。
【参考文献】
(1)「飯沼貞吉の生涯」 飯沼一元
会津人群像第6号 2010年3月2日 歴史春秋社
(2)「会津彷徨」 ウェブサイト |
直孫・飯沼 一宇氏のメッセージ
飯沼貞雄の直孫で仙台市在住・みやぎ会津会特別顧問の飯沼一宇氏から、飯沼貞雄に関する貴重なメッセージをお寄せいただきましたので次に紹介します。 |
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仙台市に在住しております「飯沼一宇(かずいえ)」と申します。飯盛山で自刃した白虎隊士で、ただ一人蘇生した飯沼貞吉(後 貞雄)の次男の次男、直系の孫になります。貞雄の長男は「一雄」といいますが、23歳で夭逝したため、次男である私の父親・一精(かずきよ)が後を継ぎました。貞雄は昭和6年に死去しました。私は昭和16年生まれでありますので、直接顔を合わせたり、語り合ったりしたことはありません。父親からわずかに「おじいちゃんは白虎隊の一員でただ一人生き残ったのだよ」と聞いていただけです。飯沼家は代々男子の名には「一」をつける伝統があります。貞雄の兄は「一近」、弟は「一寿」
です。ちなみに、私の兄は「一浩」、弟は「一元」で、私を含め、兄、弟の息子たちにも「一」をつけています。本人は18歳のころ、自ら幼名貞吉を「貞雄」と改名していますが、なぜ伝統である「一」をつけなかったのかは、父からも聞いたことがないので不明ですが、おそらく白虎隊で一人生き残り、友人と死を共にできなかったことが、心のどこかにあったのではないかと予想していま
す。
しかし、やはり祖先のことは気になるものです。会津白虎隊のこと、白虎隊の教え、自刃のことなど、本を読むなどして、いろいろと学びました。2008年に兄が保管していた貞雄やその他の会津関係の書箱に、貞雄が朱筆をいれた『会津藩白虎隊顛末略記』という文書が発見されました。これには、なぜ白虎隊士が飯盛山にたどり着いたあと、自刃に至ったかということについて、貴重な記録が載っています。今までの説では、彼らはほとんど徹夜でやっと飯盛山にたどり着き、城下をみると町が燃えているのを、若松城が燃えていると勘違いして、「もはやこれまで」と自刃に至ったと説明されています。地元の観光ガイドの方も「勘違いしてのもはやこれまで」と説明しています。しかし、顛末略記には、彼らが1時間半ほど、敵に突っ込むか、迂回しながら城をめざすかの激論を戦わせたと、すなわち「甲怒り、乙罵り」と記載されています。後世では、年端もいかない子どもたちが早合点して自刃したように思われているようですが、真実とは異なっていることを強調しておきたく思います。
貞雄の墓は、仙台市北山の曹洞宗の名刹「輪王寺」にあります。今まで「飯沼貞雄の墓はどこですか」と尋ねられることもしばしばありました。輪王寺さんでもときどき尋ねられるとのことでした。そこで、貞雄の孫3人で、輪王寺の住職の日置道隆様のご了承をえて、墓への道筋の案内板を設置しました。また、貞雄の略歴などの説明と、貞雄(貞吉)が出陣のときに母から詠みつかわされた和歌の歌碑を墓所に建立しました。「あずさゆみ むかふ矢先は しけくとも ひきなかへしそ武士の道 玉章」の和歌を母が襟に縫い込んで出陣したといわれています。この歌の意味は、普通に考えると、「弓矢がどんなに激しく
向かってこようとも、決して引き返してはならない。それが武士の道である。」になるでしょう。しかし私は現代風に解釈しています。「人は心に決めた道を、厳しい困難に出会っても引き返さずに突き進んでいくべきだ。」との教えのように受け取っています。
会津藩士の子弟は、10歳で藩校日新館に入学するまで、6歳から9歳に町内でグループを作り7つの約束の後に、「ならぬことはならぬものです」で締める「什の掟」を繰り返し叩き込まれたことはよく知られています。この「ならぬことはならぬものです」について、単純に考えると、だめなものはだめという
ことになるでしょうが、私は、「するべきことをしなければならない」という「禁止」ばかりではないもっと積極的な「義務」もその意味に含まれていると考えています。会津の子どもたちに対する教えとして、「あいづっこ宣言」が出されていますが、最後に「やってはならぬ やらねばならぬ ならぬことはならぬものです」と締めくくってあります。まさしく「すべきことをやらねばならぬ」のだと思います。私は、偉そうなことは言えませんが、什の掟の「ならぬことはならぬものです」の精神が私の心にも深くしみ込んでいること(どこかに会津魂が潜んでいること)をときどき感じます。 |