みやぎ会津会
これまでの講演 このページでは、総会、例会でお話をしていただいた方の講演要旨をまとめて紹介しています。
2017/2/23更新
トップ プロフィール これまでの活動一覧 みやぎと会津 会津17市町村



      講演年月日 講 演 者 演  題
2016年1月9日 第9回総会   若松城天守閣郷土博物館学芸員
 湯田 祥子 氏
 蒲生氏郷の生涯
2014年7月29日 第14回例会  幕末史を見直す会代表
 鈴木 荘一 氏
 勝ち組が消した開国の真実
2014年1月30日 第7回総会  東北運輸局長
 長谷川 伸一 氏
 東北の交通観光行政について
2013年8月2日  第13回例会  会津若松市
 石田 明夫 氏
 伊達藩(仙台藩)から見た戊辰戦争
2013年1月28日 第6回総会  会津松平家第14代当主
 松平 保久 氏
 会津藩の歴史と京都
2012年1月23日 第5回総会  会津若松市長 
 室井 照平 氏
 会津若松市のまちづくり
2011年5月17日 第8回例会  福島民報常務取締役編集主幹
 佐藤 春雄 氏
 東日本大震災と福島の現状
2010年5月17日 第7回例会  前東奥日報社長
 佐々木 高雄 氏
 こちら側の志士・広沢安任
2010年1月25日 第3回総会  作家
 星 亮一 氏
 会津の人・心・歴史
2009年11月9日 第6回例会  東京農工大名誉教授
 小原 嘉明 氏
 利己的遺伝子と会津の心
2009年4月07日 第4回例会  会津天宝醸造椛纒\取締役会長
 満田 政巨(みつたまさお) 氏
 今伝えたい会津の心
2009年1月26日 第2回総会  会津若松市長
 菅家 一郎 氏
 会津の現状と展望
2008年11月10日 第3回例会  轄K楽苑代表取締役社長
 新井田 傳 氏
 会津藩の教えで世直しを
2008年8月18日 第2回例会  石巻赤十字病院院長
 飯沼 一宇(かずいえ)氏
 幕末の会津
2008年5月8日 第1回例会  オンワード樫山
 杉本 大雄氏
 末広酒造椛纒\取締役社長
 新城 猪之吉 氏
 クールビズガイダンス
 
 遠藤敬止を語る

 
講演年月日 講演者 演題
2016年1月9日 第9回総会  若松城天守閣郷土博物館学芸員
 湯田 祥子 氏
蒲生氏郷の生涯
 会津若松観光ビューロー・若松城天守閣郷土博物館学芸員の湯田祥子氏をお招きし、「蒲生氏郷の生涯」と題して、会津歴代の領主、蒲生氏郷の会津領主としての功績などをお話していただきました。
 湯田祥子氏は会津のご出身で、昨年不j串間民報紙に「会津若松の礎築く蒲生氏郷の生涯」を連載されています。
 
講演される湯田祥子氏 
 会津の地は古来より東北地方(奥州)の玄関口として重要な土地だと認識さ れてきた。会津を治めた歴代の領主を見れば一目瞭然だが、群雄が割拠する戦 国時代から江戸時代の初めにかけて、わずか5〜60年の間に5回も領主が入れ かわっていることから、領地拡大をめざす武将にとっては肥沃な土地である会 津はぜひとも手に入れたいものだっただろうし、少し時代が下り天下人たる支 配者たちにとっては、東北や関東へにらみをきかせる為に自分の信頼のおける 者を配置する必要がある、そんな土地だった。
  この会津の領主になるよう命じられ、その後近世以降の発展の基礎をつくっ たのが蒲生氏郷である。氏郷は、いまだ完全には掌握しきれていない東北地方 に、奥州仕置の一環で豊臣秀吉の代行者としてその権威を隅々までいきわたら せ、伊達政宗に代表されるような奥州や関東地域の不穏分子をけん制する役目 を与えられた。そしてそれだけではなく、自分よりも若く才能に溢れた氏郷を 危険視していたと思われる秀吉は、氏郷が自分の地位を脅かすことを畏れて遠 く会津に追いやったのだとも考えられるのである。

 蒲生氏郷は、会津にとっては馴染みの深い武将だが全国的に見れば残念なが らそれほど際立った印象の無い感がある。それはおそらく当時の日本の政治経 済の中心だった京やその周辺地域から遠く離れた東北地方の領主だったことや、 40歳という若さでなくなってしまったことが影響しているだろう。その氏郷の 特徴として挙げられるのは、織田信長の娘婿であることや文武両道の武将だっ たこと、侘び茶を大成した千利休の高弟だったこと、キリシタン大名だったこ となどだろう。
 はじめは織田信長の下に人質としてあずけられた氏郷だったが、信長はわず か12,3歳の氏郷の才能を見抜いて寵愛するようになり、ついには自分の娘であ る冬姫を嫁がせたのである。また、文武に秀でたことでも知られている氏郷だ が、氏郷のトレードマークである銀の鯰尾兜は戦場を駆け巡り、敵味方問わず その存在を知らしめたことだろう。しかし残念ながら氏郷の鯰尾兜は現存して いない。また、キリシタン大名としてのその存在感も見逃せない。氏郷は、当 時日本に布教に訪れていた宣教師たちには「日本で力のある大名の一人」とし て知られており、日本で布教するためには氏郷に協力してもらうのがより良い と考えられていたことだろう。

 蒲生氏郷が会津領主となったのは天正十八年(1590)のこと。氏郷は奥州の 要の地にふさわしい城づくりと町づくりを始める。出来上がった城には、(諸説 あるが)氏郷の幼名・鶴千代からとって「鶴ヶ城」と名づけられた。今は幻と なった七層の天守閣を擁し、本丸・二ノ丸・三ノ丸を設けて城の周りには濠を 張り巡らせ、城は戦の状況を視野に入れたまさに戦国の城だった。また、城に は茶室も設けられた。この茶室は、氏郷が茶道の師である千利休が切腹させら れたことを受けて会津にかくまった利休の子・少庵が、氏郷のために造ったと いう伝来を持つ。少庵は千家茶道を子孫達に継承し、少庵の孫達の代になり表・ 裏・武者小路の三千家が興され、現在まで続く茶道文化隆盛の元となった。よ って、大げさに言えば氏郷がいなければ千家茶道の発展は見られなかったかも しれない。
  一方、町の興隆のために氏郷は様々な産業を会津に根付かせた。現代まで続 く伝統産業の代表である漆器もそれである。厳密に言えばそれまでにも漆器は 会津で作られていたが、氏郷が技術者を会津に呼び寄せたことで本格的な産業 として発展していくことになったのだ。

 このように様々な施策で近世以降の会津の発展の基礎を築いた蒲生氏郷は、 残念ながら40歳という若さで亡くなってしまう。
 もし、あと数年でも長生きしていたら、その後の日本の歴史は変わったかも しれない…。そんなことを想像させる可能性を秘めた稀代の戦国武将が蒲生氏 郷だったのである。


 
講演年月日 講演者 演題
2015年7月29日 第14回例会  幕末史を見直す会代表
 鈴木 荘一氏
勝ち組が消した開国の真実
  講演は、幕末史を見直す会代表・東京在住の鈴木荘一氏をお招きし、「勝ち組が消した開国の真実」と題して行われました。
 講演の要旨は以下のとおりです。
 
(1)  学校では「薩摩・長州の志士が立ち上がって幕府を倒し、明治維新を成し遂げた。明治維新こそ日本の夜明けであり、維新の精神を示す『五箇条の御誓文』は、越前藩士由利公正・土佐藩士福岡孝弟・長州藩士木戸孝允が起草した」と教え、多くの日本人がそう信じています。
 しかし私は、そうではなく、「日本の夜明けは、幕府が断行した開国である。老中阿部正弘の日米和親条約、大老井伊直弼の日米通商条約こそ日本の夜明けである。明治維新とは、幕府が苦心惨憺して開国を成し遂げたとき、それまで攘夷・攘夷と騒いでいた薩摩・長州の陰謀家が、偽勅を発するなど悪業を重ねて権力を奪い獲ったクーデターに過ぎない」と考えています。越前藩士由利公正・土佐藩士福岡孝弟・長州藩士木戸孝允が起草したとされる『五箇条の御誓文』は、実は、幕府若年寄永井玄蕃頭尚志が起草し、将軍徳川慶喜が最終文案を確定した『大政奉還上表文』の趣旨を転用したに過ぎません。『大政奉還上表文』こそが『五箇条の御誓文』のオリジナルなのです。
(2)  幕府が開国したというのは国際ニュース。インターナショナル・ニュースです。もし皆さんがイギリス商人かフランス商人かアメリカ商人だったら、「日本が開国した」と知れば、日本へ出掛けて商売・貿易をして一儲けしよう、と考えるでしょう。ですから幕府が行った開国は、世界中の人々が関心を持つ、国際ニュースすなわちインターナショナル・ニュースなのです。
 一方、「明治維新で権力者が幕府から薩長新政府に替った」ことは、コップの中の嵐に過ぎない国内ニュース、すなわちローカル・ニュースなのです。
 そういう意味で、日本の夜明けは明治維新でなく、幕府が行った開国なのです。
(3)  私は、「薩摩・長州が何の罪もない会津を攻め滅ぼしたことが、太平洋戦争という無謀な大戦争に踏み込んだ原因なのだ。薩摩・長州が会津を滅ぼすことが無ければ、日本は太平洋戦争に踏み込むことは無かっただろう。今より、もっと、ゆっくりだったろうけれども、日本は今よりもっと静かで落ち着いた風格ある国家になっていただろう」と考えています。
(4)  司馬遼太郎の「坂の上の雲」は面白い小説ですが、会津人柴五郎を書いていないことは残念なことです。
 会津藩士の子弟で会津会創設者の一人でもある柴五郎は、義和団事変のときの活躍をイギリス公使マクドナルドに認められ、イギリスの新聞「ロンドン・タイムズ」「スタン ダード紙」「デイリー・テレグラフ紙」に紹介されます。またピーター・フレミングというイギリス人が、「北京籠城」と云う本を書いて柴五郎を賞賛しました。
 こうした柴五郎の活躍が国際社会から認められ、日英同盟が結ばれ、日露戦争に勝利します。日本が日露戦争に勝てたのは、柴五郎中佐の義和団事変のときの活躍が国際社会に認められ、日英同盟が結ばれたからなのです。これこそ、国際ニュース=インターナショナル・ニュースです。
 「坂の上の雲」は、これほど大活躍をした会津人柴五郎を書いていません。この重大な国際ニュース=インターナショナル・ニュースを無視しているのです。「坂の上の雲」は「乃木大将は愚将だった。児玉源太郎が名将だった」などと云っていますが、これは日本陸軍のローカル・ニュースに過ぎません。「坂の上の雲」は、こういうローカル・ニュースにこだわって、柴五郎中佐の活躍による日英同盟という国際ニュース=インターナショナル・ニュースを無視し、国際性が無く視野の狭い日本人を量産しているのです。 これでは困ります。
 そこで私は、「日露戦争と日本人」を書き、会津人柴五郎の活躍をしっかり描きました。これをお読み頂ければ、明治時代の会津人が、国際社会の舞台で、いかに立派な業績を上げたか、お分かりになるでしょう。
(5)  今日、学校では「無為無策で統治能力を失った無能な幕府に代わって薩摩・長州の若い志士が立ち上がり、明治維新を成し遂げ、輝かしい近代国家を建設した」と教えていますが、これは真っ赤な偽りです。
 そもそも幕末維新の本質は、「徳川幕府と会津藩が開国を成し遂げたおかげで、明治近代化が可能になった。幕府と会津藩が開国を果たし、日本近代化の礎を築いた」ということです。
 歴史は100年経ったら見直さなければなりません。
 今日、戊辰戦争から140余年が経っています。私は、この辺で、勝ち組である薩摩・長州を正当化する「偽りの歴史観」を見直して、日本近代史を書き直し、次代の若い人々に「歴史の真実」を語り伝えるべき時期に来た、と考えています。

幕末開国の真実を熱弁される鈴木荘一氏
鈴木荘一氏プロフィール
昭和23年東京生まれ 
中学1,2年を会津若松ザベリオ学園に在学
昭和46年東京大学経済学部卒、日本興業銀行入行審査・産業調査業務等に従事
在野の歴史研究家、「幕末史を見直す会」代表
著書に「勝ち組が消した開国の真実」、「日露戦争と日本人」、「アメリカのオレンジ計画と大正天皇」(以上「かんき出版」)、その他がある

鈴木荘一氏のウェブサイト(日本近代史を見直す)

熱心に耳を傾ける会員-1

熱心に耳を傾ける会員-2


 
講演年月日 講演者 演題
2014年1月30日 第7回総会 東北運輸局長 長谷川伸一氏 東北の交通観光行政について
 国土交通省現東北運輸局長 長谷川伸一氏は会津のご出身である。これを縁にみやぎ会津会総会での講演をお願いしたところ、快くお引き受けいただき、 「東北の交通観光行政について」と題し、交通・観光に係る東北地方の現状、課題等について熱弁を振るわれた。
無料WiFiサービスについて説明される長谷川局長 会場の様子
 
<長谷川伸一東北運輸局長講演の要旨>

自己紹介
長谷川伸一氏プロフィール
 昭和32年生まれ会津若松市出身
 城西小、若松四中、会津高校を経て
 昭和56年3月東京大学法学部卒
 昭和56年4月運輸省入省
 以後鉄道、自動車、海事関係を歴任
 平成24年8月国土交通省東北運輸局長

・入省後印象に残るのは、河川局水政課長
 台風10個上陸の年(2004年)に就任
 この年は、新潟・福井豪雨、中越地震など災害相次ぐ
 水防法等改正(内容は、ハザードマップの義務づけ拡大、特別警戒水位など) を担当
・もう一つは、交通政策課長として鹿児島県庁に出向したこと
 3年間勤務したが、陸海空にわたる仕事で大変勉強になった
 現在、薩摩大使を務めている
 なお、私は楽しくやらせてもらったが、当時の総務部長(鹿児島出身、自治省)は、新人のとき福島県庁に配属され、なかなか大変だったとのこと
運輸局の紹介
・東北運輸局は、仙台陸運局と東北海運局が統合してできた(59年7月)
 管轄区域は、59年当初は4県だったが、14年7月に6県になった
・主な業務は、
 鉄道・バス・タクシー・トラックなどの陸運関係、海運関係、観光関係、車検・登録、船舶検査、造船 など
・業務内容については、後ほどパンフレットをご覧いただきたい
 ここでは、観光、鉄道の2つに絞ってふれたい
観光 
@観光の意義、経済効果について
 ・観光は裾野が広い産業
  観光庁の2010年調査では、旅行消費額23.8兆円、生産波及効果が46.4兆円、GDPに占める割合は約5.1%
  日本の観光産業の雇用創出効果は約400万人、全国の就業者の約6%
  しかし、世界の観光産業の雇用創出効果とGDPは、それぞれ9%前後なので、日本の場合、伸びしろはまだまだ大きいと言える
 ・観光の意義は、経済効果だけではない
  観光による地域活性化が図れる
   観光素材の掘り起こし、磨きあげを通じて
   →集客力のある個性豊かな地域づくりを進めることにより、交流人口の増加につながる
   →歴史的・文化的価値再認識、地域に対する誇りを持つことにより、定住人口の維持にもつながる
A政府としても、観光立国の実現に向けた取組みを推進
  小泉総理のとき、観光立国懇談会が開催されてから本格化
  その後、2007年に観光立国推進基本法が成立、基本計画が策定された
  昨年6月には、「観光立国推進に向けたアクションプラン」が策定された
  内容は、
   日本ブランドの作り上げと発信(クールジャパンなど)
   ビザ要件の緩和(タイ、マレーシアにビザ免除など)  など
   今年になって、このアクションプランの改定に向けて議論がスタート
B東北観光の現状
 全国的には、昨年は念願のインバウンド1000万人の目標を達成するなど好調
 しかし、東北の観光は、全体としてまだまだ厳しい
 観光庁の宿泊統計調査で観光客中心の施設の宿泊者数をみると、
 昨年(9月まで)は、東北全体では、震災前の8割程度に止まる
 特に、インバウンドは厳しく、外客数は震災前の4割程度
 福島は、昨年は前半7割程度だったが、夏場は8〜9割、外客は依然厳しい
C運輸局の施策
・東北観光基本計画
 こうしたなか、東北の幅広い観光関係者が連携して取り組む施策等を盛り込んだ計画を作ろうということになって、昨年3月に東北観光基本計画を策定
 東北地方交通審議会の答申としていただいた
 目標は、東北の全県で、震災前の数字を上回ること
・施策の方向性は、パンフレットにあるように、
 @)震災からの観光復興
  官民一体となって、正確な観光情報を内外に一元的に発信、
  記憶の伝承と復興ツーリズムの推進、学校や職場などを対象とする震災学習ツアーの促進など
 A)東北全体の観光復興
  東北ならではの観光素材の発掘と磨きあげ、東北を巡りたくなる雰囲気づくり、
  旅行しやすい環境づくりなどを推進
  施策の例として、「確実な商品化に向けた魅力ある観光地づくり」(24年度補正)を挙げる
  これは、地域の資源の発掘と磨きあげ、目利きの派遣、モニターツアーの実施等により、
  確実な商品化を図ろうとするもの
  東北で12地域が選定されており、 喜多方の「漢字のまち」も選定された
  これは、「蔵とラーメンのまち」に加えて古代文字を活かした「漢字のまち」として売りだそうというもの
  古代文字ミステリーウォークを、学生団体向けと一般向けで実施したところ、非常に好評で、
  旅行会社もツアー化に手応えを感じているようだ
  25年度補正でも、「観光地ビジネス創出の総合支援」の予算がついたので、
  この続編となる取組みを実施予定
 B)インバウンド
  全国的には、1000万人達成の次の目標は、2020年に2000万人だが、
  東北では、まずは震災前に戻すことが目標
・ビジットジャパンの事業で、
 海外プロモーション
  中、韓、台、香の主要市場に加え、タイなど東南アジア向けにも注力 海外から東北に来て、見てもらう事業
  海外エージェント向けは、昨年10月実施、メディア向けは2月予定
  いずれも、視察ルートに会津も含まれている
・受入環境整備事業
 今年度、東北は、会津若松など2カ所で実施
 会津若松では、在住外国人(600人)のボランティアガイドネットワーク化
・外国人客、特に個人客から要望の強い無料WiFiサービスの拡充・紹介
 NTT東日本、東北観光推進機構と連携して、外国人客向けに2週間の無料WiFiサービスを提供するもの
 オリジナルID/PASSカードを作成、配布場所を東北72カ所に拡大、共同プロモーションを実施
・免税範囲の拡大(10月から全ての品目が免税対象)に併せて、
 免税店の拡大を促進(地方の特産品購入なども期待)
 合わせて、観光庁でシンボルマークを交付し、海外プロモーション等で交付を受けたところを紹介することを予定、 そのための相談窓口を運輸局に設置
・首都圏に来た外客の取込みも重要
 2020年の東京オリンピック・パラリンピックを考えると、東京プラス1とかプラス2とか言われるが、首都圏に来た外国人客に会津にも来てもらうような取組みができないか、東京にきた外客のオプショナルツアーの目的地にしていくようなことができないか?
D最近の東北観光の話題とこれからの動き
・昨年は、NHKの八重の桜、あまちゃんが大ヒット
 東北六魂祭は、25年は福島で開催
・DCについては、昨年は、仙台みやぎ、秋田で開催された
 今年は、春に新潟で、初夏から夏に山形で開催される  来年は福島で開催予定
 最近の流れは、DCは単なる誘客キャンペーンではなく、
 これを機に、改めて地元の観光資源を見つめ直し、磨きあげる機会として活用されている
 福島DCに向けて幅広い関係者で取組んでいただきたいし、
 DC後にも続いていくようなものとしていくことが望ましい
 また、仙台みやぎDCのように、県を越えた広域展開・連携も重要
・新幹線の開業など、高速交通体系の整備の影響
 北陸新幹線が2015年3月に開業予定だが、インパクトは大きい
  東京から金沢まで2時間30分を切る
  北陸の地元も力が入っているし、JR東日本も、金沢に営業センターを設けるなど北陸に力を入れている
 北海道新幹線も、2015年度末に開業の予定
 こうした高速交通体系の整備により、観光などで地域間競争の激化が必至
・仙台空港の民営化の影響
 順調に手続き等が進めば、2016年度から民営化がスタート
 狙いは、経営効率化、空港ビルの収益等により、着陸料を安くし、使い勝手の良い空港とすることで、
 路線拡充などを図ること
 現在、ピーチアビエーションが好調
 LCC利用者は高速バスの感覚であり、更なるLCC路線拡充で(国内・国際) 
 新たな客層が期待でき、空港利用者に厚みができる
 仙台空港の民営化は、東北全体にとっても大きなインパクト
・当面の動き
 2月6日に、福島県観光戦略会議がスタート
 2月7日には、観光立国タウンミーティング・イン福島
 3月には、これからの東北観光を考えるシンポジウムが、仙台と東京で開催
 震災から3年、東北の観光復興を加速させ、東北観光が新たな段階に踏み出し、
 東北が一丸となって取り組む姿を発信するために開催するもの
 ・観光のまとめ
 東北の観光復興は道半ばだが、震災から3年を経過し、4年目に入る
 引き続き、正確な観光情報の発信や復興ツーリズムの促進などに取り組む必要があるが、
 4年目を迎え、東北観光も新たな段階へ
 今後を展望すると、山形、福島でのDC開催、北陸新幹線の開業などによる地域間競争の激化、
 仙台空港の民営化、そして東京オリンピック・パラリンピックなど様々な動きがある
 関係の皆様方とよく連携して、東北の観光を元気にしていけるように取り組んでいきたい
鉄道
 鉄道については、安全・安心の徹底と、被災した鉄道の復旧などに留意して、取り組んでいる
@震災からの復旧状況
 大震災による不通区間は271km
・三陸鉄道は、4月6日に全線復旧予定
 三鉄は、施設は自治体が保有、国と自治体が復旧費用を50%ずつ出して復旧、
 クウェートから県への寄付の一部で車両を購入
 三陸鉄道を勝手に応援する会などの民間の応援体制、活動も活発
・仙石線は、野蒜、東名付近の高台移設部分を工事中
 JR施工、丘陵地の高台を切り取り、街づくり、それと一体に鉄道を整備
 大規模工事、高台からの土砂は、50トンダンプで移動させ、ベルコンで下に降ろす
 復旧は27年中とされているが工事は順調なので、早まるのではないか
・石巻線は、女川付近が残ってるが、27年春のまち開きに合わせて復旧
・常磐線(浜吉田〜相馬間)は、用地買収も順調、29年春復旧予定
・山田線、気仙沼線、大船渡線は、運輸局が事務局を務める復興調整会議で、
 まちづくりと一体となった復旧計画の策定に向け協議中
 気仙沼線と大船渡線については、仮復旧として、BRTを運行中
 山田線については、今朝の河北新報で、JRが、三陸鉄道との一体的な運営とすることを提案するとの記事
 明日の復興調整会議(運輸局が事務局)で提案される予定なので、コメントはしにくいが、
 鉄道復旧の議論に加えて、復旧後の運営をどうするかも課題となっている
A只見線
 路線の性格としては、乗降人員は極めて少ないが、盲腸線でなく、上越方面とつながっており、
 鉄道ネットワークを形成
 風向明媚な路線で、観光面、生活面で重要な役割  しかし、なかなか厳しい状況
 河川の計画高水位が上がったため、鉄道も上げる必要があり、復旧費用が85億にも上る
 85億の1/4を自治体が基金として積むこととしており、地元も利用促進に取り組むとしているが、
 JRはなかなか厳しい態度
 復旧とその後の運営・利用の両方の問題がある
 国交省としては、JRに、地元とよく話し合うように指導している
 話し合いの中で、復旧と利用・運営の両面で、どのような枠組みを作っていけるかが鍵
 先日も、国、県、地元自治体、JRで集まり、この問題を協議
 地元としても、いろいろと工夫しながら粘り強く取り組む必要
最後に
 会津出身というと、会津の人はやはり違うと言われる
 「八重の桜」の1回目で、「ならぬことはならぬ」が強調されていた
 「頑固」と言われる面もあるが、時代が移りゆく中で、ブレない価値観あるいは理念の共有があるように感じる
 会津には、現代の日本人に失われつつある誇り・矜恃が残っているのではないか
 これからの時代の精神的支柱となるようなものがあると思う
 会津から離れ、根無し草ではあるが、片鱗でも残っているのであれば、大事に持ち続けていきたい
 東北の交通運輸関係で活躍している人にも会津出身者が多く、仕事柄たびたびお会いし、
 教えていただくことが多い
 引き続き、福島関係、特に会津関係の仕事は、しっかり取り組んでいきたい
 これを機に、ご出席の皆様からご指導ご鞭撻を賜りますよう、よろしくお願い申し上げる


 
講演年月日 講演者 演題
2013年8月2日 第13回例会 会津若松市 石田明夫氏 伊達藩(仙台藩)から見た戊辰戦争
熱弁をふるわれる石田 昭夫氏
 例会では、昨年9月3日「八重の生涯」と題して講演していただいた会津若松市の石田明夫氏に再度お越しいただき、今回は「伊達藩(仙台藩)からみた戊辰戦争」と題し、約1時間にわたり講演していただきました。
 お話の冒頭に石田氏は、NHK大河ドラマ「八重の桜」には史実と異なる箇所が2点あるとして、
 一つ目は、武家の世界で、妹が兄を「あんつぁま」ということはない。「兄上」という。
 二つ目は、八重は砲術師範の娘であるが、自宅で実弾を発射することはない。
 と指摘されています。
 一つ目については、みやぎ会津会会員も日頃から同じように感じて、「東北訛りと言葉づかいとは異なり、おかしい。弟の三郎は八重を「姉上」と言っているではないか。」と話し合っていたところであり、石田氏の指摘に納得したところです。
 石田氏の「伊達藩(仙台藩)からみた戊辰戦争」の講演の要旨は、次のとおりです。

 戊辰戦争では、会津藩とともに奥羽列藩同盟を組んで、新政府軍と戦った仙台藩ですが、慶応四年(1868)閏4月の段階までは、新政府軍の奥羽鎮撫が仙台に置かれたことから、新政府軍の要請で、福島県郡山市の西部や福島市と猪苗代町の境に位置する土湯峠周辺において、会津藩と激しい戦闘が繰り返されていました。
2  その後、福島市において奥羽鎮撫総督府下参謀で長州藩の世羅修蔵が「奥羽は皆敵」と書いた手紙が発見され、仙台藩士によって捕らえられ閏4月14日に斬首されるという事件が発生しました。その事件をきっかけに、仙台藩は、奥羽列藩同盟に入ることとなり、白河城へ会津藩の応援部隊を送ることになります。白河城の西では、「烏組」と称する黒尽くめの部隊が活躍し、新政府軍から恐れられました。
3  しかし、戦況は良くならず、二本松城が7月29日に落城すると、仙台藩は降伏に傾くこととなり、母成峠から米沢藩に入り、仙台へ部隊を引き揚げてしまいました。一方、福島県の相馬藩境に位置する新地町では、仙台藩の松山組の部隊が新政府軍と戦い、70人以上が戦死しています。その戦いを最後に、仙台藩は降伏したのです。その根底には、伊達政宗時代に豊臣秀吉・徳川家康によって百万石以上あった領地を62万石に減らされたという遺恨があったからです。
4  旧幕府の榎本武揚が、9月中旬に、軍艦を東松島に集結させ、仙台藩士や会津藩家老の西郷頼母、新選組の土方歳三ら約2500人を乗せ、箱館に向いました。
5  仙台市の輪王寺には、白虎隊士で、飯盛山で自刃し蘇生した飯沼貞吉(後に貞雄と改名)の墓があります。今年の「会津まつり」では、西郷頼母や山川健次郎、飯沼貞吉、伊東悌次郎らの子孫の方が「子孫隊」で行列に参加します。


 
講演年月日 講演者 演題
2013年1月28日 第6回総会 会津松平家第14代当主 松平保久氏 会津藩の歴史と京都
松平保久氏を囲んでの記念写真のうちの1枚
会津松平家第14代当主 松平保久氏にお越しいただき、「会津藩の歴史と京都」と題してお話していただきました。 特別講話の後、松平氏に各テーブルを回っていただき、松平氏を囲んでテーブルごとに記念写真を撮影。 すぐプリントを注文し、お開きの時刻までに全員にプリントを配布することができました。




 <松平保久氏講話の要旨> 
「会津藩の歴史と京都」を語られる松平保久氏
 
 会津会は全国にあり、会津人の思いを継承する上で意義深い。各会員の熱い思いが伝わってくる。みやぎ会津会の活動もホームページで見ているが、例会等を楽しくやっておられる。
 昨年末、会津出身者の重鎮、(東京)会津会の会長を長く務められた川嶋廣守氏が亡くなられた。心から哀悼の意を捧げたい。
 歴史は風化する。積極的に伝える思いが必要である。自分の国の歴史を伝えていく、会津は敗者の歴史であった。今年、全国的に会津の歴史が注目されている。
 今年の大河ドラマ「八重の桜」は初めて幕末の歴史を会津の側から描いているのでとても興味深い。
 2011年は、初代藩主保科正之公生誕400年であった。東日本大震災で正之公はクローズアップされた。明暦の大火、慶長16年の自然災害、会津大地震の対応に、際立った活躍をされている。3代将軍家光の異母弟である正之公は4代将軍家綱公の補佐役に任じられ、山形から会津に入っている。
 公が制定した家訓15ヶ条は大きな意味を持っている。その精神は幕末まで受け継がれ、武士の基本的な精神のよりどころであった。折々父から言い聞かされていた。現在でも十分通用するものである。
 明暦の大火の復興計画を迅速に行っている。危機管理はスピーディで大胆、時代が変わっているとして天守閣の再建は中止し、救済米、救済金を支給している。参勤交代の江戸詰の大名を国元に帰し江戸の人口を減らした。天地明察で描かれた改暦を推進、バックアップするなど業績は多岐にわたる。一方思慮深く、将軍の面目のため、自分の業績の記録は処分せよと言って亡くなっている。
 そして2012年は、松平容保公が京都守護職就任150年周年であった。
 さらに大河ドラマ「八重の桜」の放送がきっかけとなって、会津若松商工会議所と京都商工会議所の連携協定が実現している。
 京都守護職は、所司代、奉行の上に位置し、京都の治安を担当した。それまでの北方蝦夷地警備、房総半島警備が評価されている。容保公は固辞したが、松平春嶽、徳川慶喜が強く要請、家訓15ヶ条を持ち出されて就任することになった。8月28日の政変における活躍で孝明天皇の信任を得、ご宸翰と和歌の下賜を受けている。これらは、会津松平家の家宝として保管している。
 歴史は想定外に進む。その後会津は朝敵に。
 京都に容保桜というのがある。京都市役所本館中庭に珍しい桜が残っていたが、この地はかつての京都守護職上屋敷跡地。昨年4月訪問し、大レセプションが行われた。大変うれしいことである。苗木を分けてもらい、御廟周辺と鶴ヶ城本丸に移植する予定である。
 山本八重の兄覚馬は会津と京都をむすぶ絆である。聡明であり会津の誇りである。容保公と一緒に京都に赴任、鳥羽伏見の戦いに参戦し捕虜になった。その後京都市の顧問を務め、産業振興に貢献したほか、同志社大学創立に協力している。61才で死亡、京都に墓がある。
 今回の大河ドラマは会津側からみた幕末であり、うれしいことである。
 ”ならぬことはならぬ”は流行語大賞を受賞するかもしれない。私が思うに容保公の愚直とも言える生き様は価値観が多様化し混迷しているともいえる現在の日本でも意味があるのではないか。
 会津の皆様とは今も親しくさせていただいている。曽祖父はいってみれば戦犯であるが、いつも温かく迎えて下さる。会津の方々のおかげである。


 
講演年月日 講演者 演題
2012年1月23日 第5回総会 会津若松市長 室井照平氏 会津若松市のまちづくり
記念講演は、室井照平会津若松市長から、「会津若松市のまちづくり」と題してお話していただきました。
以下記念講演要旨
室井会津若松市長の講演
講演に聞き入る会員

 おばんでございます。ご紹介いただきました会津若松市長の室井昭平です。本日はみやぎ会津会の総会・懇親会にお招きいただき御礼申し上げます。私は昨年の8月に就任したばかりです。先輩の会津地方の首長さん方が大勢参加されている中ですが、会津は一つということで日ごろからわれわれは会津の発展を願いながら頑張っています。代表ということでお話をさせていただきたいと思います。

 私も仙台にはご縁があり、昭和49年に東北大学に入りました。今日は家内も来ていますが縁があり会津まで娶ってしまいました。その後拓銀仙台支店にに2年ほど勤務、家で商売をやっていたものですから若松の家に戻り室井商店という商売をやっていました。 政治の道は平成11年から会津の街造りをしっかりやりたいという思いから市会議員を7年半やり、県会議員を半年間やり4年間浪人して昨年8月7日の市長選に立候補し当選しています。よろしくお願いいたします。

 こういう時代の田舎の町です、行政だけではなく市民の方と一緒に街造りをしなければいけないということで、汗をかいて動くという造語を作りました。汗動ということでごろ合わせをし、汗動と共同による市民参加の街造りということを提唱させていただきました。4年間浪人していた甲斐がありました。地域経済が疲弊し、仙台は東北の中心地でいつもにぎわっていますが、会津の夜の町もさみしい状況が続いています。賑やかにしたい、一緒に街造りをしたい、街が駄目になったら市役所も駄目なってしまうというおもいで市制を担わせていただいています。

 最初に暗い話をさせていただきます。通常であれば会津若松には大勢の観光客が来られます。会津で一番観光客が来られる鶴ヶ城、これを昨年赤瓦にリニューアルして今年こそと思って矢先の地震でした。通年ベースでは、工事中のお客様数ぐらいには戻るのですが一 時は5割、4割、3割という状況が続いておりました。実は民間の施設が非常に苦戦しておりまして、半分まで戻ったらいいのかなという状況です。さきほど 村井知事ともお話をしましたが、県外からの修学旅行については88%ダウンです。本当に厳しい状況です。市内を走っているバスも36%ダウンですし、観光農園も81%ダウンです。ただ旅館は現在33%ダウンまで戻しています。福島県の浜通り地方から避難されている方が沢山いらっしゃいます。会津に一時は1万人ほどおられました。いまは落ち着かれて民間に居られる方も含めて6千人は切ったのかなと思います。会津若松市には大熊町が役場機能と一緒に来ておられまして、そういう意味では人が増えておりまして経済的なプラスはあるのですが、皆さんへの対応も市民の方々苦労されたり、力を貸したりされています。会津美里町は楢葉町を受け入られており、坂下町は葛尾村また各方部の町村長さんも一時的に受け入れられております。幸いに会津には民宿とか小さな旅館がたくさんあったものですから一時は、仮設ができるまで町の中に受け入れておりました。そのような中でみやぎ会津会はじめ各方面からさまざまなご支援をいただきました。義捐金、物資をいただいておりあらためて御礼を申し上げます。本当にありがとうございました 。

 8月以降真っ先にやらなければならなかったのが放射線対策です。線量は低いのです。現在会津若松では0.1まで、仙台市とさほど変わらない線量まで落ちましたが、ほとんど除染する場所はありませんが、市民の皆様に安心な状況を説明しなければいけない。お米をしっかり調べ、会津若松の全集落300検体を調べすべて問題ありませんでした。会津のお米は大丈夫です。

 観光風評被害対策もやらなければなりません。会津は大丈夫だ安全だと訴えることが大事です。現在会津若松の人口は12万6千人弱です。会津圏内の人口は30万人弱です。会津若松の経済は周りの町村さんと一蓮托生でありまして、いま私は、農業も観光も物作り企業も全部連携して一緒に取り組みましょうということを申し上げています。特に農業の場合は、会津米を売り込み、観光も17市町村連携させていただいて取り組ことをお願いし ています。

 会津には実は物作り企業が結構あるのです。金型、ロストワックス、オイルレスベアリングなどを作っている会社が会津地方に散在しています。会津若松市のある企業の従業員居住地は市内と市外が半々になっています。地域の物作り企業は、立地する市町村と周辺の市町村がともに支えています。会津産業ネットワークフォーラムという団体を創り、地域としていろんなものが作れるよという情報発信をさせていただこうと思っています。みやぎ会津会の皆様でご興味を持たれる方は是非一緒に手を組させていただき、会津の企業を使っていただきたいと思います。通称ァANFと言います。それで企業誘致をしたいと思っています。幸いなことに会津若松に立地していただきますと土地が三分の二出ます、建物三分の二出ます。設備投資も三分の二近く出ます。 かなりお安く、破格の誘致ができるようになっています。会津地方は線量も少ないですし、地震の影響も少なく、これから道路網も整備されてきます。そのような中で立地の検討を進めていただきたい、一緒に連携させていただきたいと思います。会津若松市役所からこのHメトロポリタンまで100kmと少し、2時間半あれば十分に来ることができます。非常に近うございますので、是非情報交換し、このようなものはできないか、あんなものはないかということを取り組まさせていただきたいと思います。ということで、地域の連携を進めていることをお話しさせていただきました。

 この震災の関係かもしれませんが、NHKの大河ドラマで来年は会津出身の山本八重という会津藩士の娘さんのドラマをやっていただきます。この方は会津藩落城のとき城内におられました。お兄さんは山本覚馬いう方で、この縁で京都に行くことになるのですが、そこで新島譲と知り合い結婚します。やがて同志社を設立し、本人は従軍看護婦などをし88歳まで存命されました。この3月25日東京で会津会100周年の会合が開かれますが、郡さんという副会長が記念誌を探しているうちに、昭和6年5月の会津会に新島八重さんが出ておられることが分かりました。幕末、明治、大正、昭和の歴史の中を生きてこられた方であります 当時は会津出身者には本当に厳しい時代であり、そのような中で会津藩出身者が立ち直るという姿がおそらく、NHKさんには今回の震災から立ち直る姿にかぶせていただけるというような話であったと思います。我々も震災でダメージがありましたが、決してこれで終わることなく新たな一歩を踏み出しているわけであります。この「八重の桜」という大河ドラマ、観光的には大きな起爆剤なると思います。京都の市長さん。同志社さんとも連携させていただき、会津の観光振興を図っていきたいと思います。会津17市町村で取り組んできたのは「極上の会津」プロジェクトという会津観光です。ぜひ会津に来ていただきたいことをあらためてお願いします。

 次に、会津でやっていること、やってきたことをお話しします。この本をご存知でしょうか。ミシュランのグリーンガイドといいまして、赤ラベルは食の三ツ星ですが、これは観光地の三ツ星です。すでに松島は入っております。会津地域各市町村さんには了解を得ていませんが、全会津でミシュラングリーンラベルの三ツ星を取得したいと思いますので、ご協力をいただきたいとここでお願いしたいと思います。

 厳しい数値からいろいろ申しあげましたが、これまで何をやってきたかということをお話します。これはお米につけているシールです。会津の米は大丈夫です 、検出していませんというものです。自信をもって売りたいということで農産品にこういうシールを付けて出荷しまた。かきのときもやりました。土壌も検査しています。会津は問題ありません。沢水についても積極的に調べました。残念ながらゼロではありませんでしたが、非常に低い数値で一部2-300ベクレムがありましたが、ほとんど二桁台、そこで作った作物はほとんど吸い上げることはありません。ましてや玄米は精米するので完璧であります。会津の農産品は 大丈夫ということを訴えさせていただきます。

 次に道路の話をさせていただきます。米沢から会津若松まで地域高規格道路という道路が平成27年に開通します。片側1車線ですが信号もないいわゆる地域高規格道路です。これが会津から南へは日光、宇都宮方面に行きますが、この道路も来年度平成24年度には着工になります。高規格道路南道路と申しまして、湯野上付近では大川の反対側に約250億円をかけて湯野上バイパスを作っていただき、縦軸がしっかり整備されてきます。国道121号は地震のときも物資輸送の大動脈になりました。いろいろな道路が使えませんでしたが、なぜか121号が完全に止まることはありませんでした。そのことが、縦軸が大切だと評価されたと思います。会津鉄道、野岩鉄道、東武鉄道の鉄道ルートも全く無傷で、3月11日は一時止まりましたが翌日から、新幹線、東北高 速道が不通の中運転され、東京から帰るのに浅草から帰ることができました。新潟までの磐越高速道も4車線化をお願いしようとしています。実は関西から東北への物資輸送は全て北陸道・磐越道を経由して運送されています。震災時、関西のトラックが、原発事故のせいでしょうか会津で荷物をおろし帰って行ったという笑えない話がありますが、大動脈として大活躍しています。縦軸と横軸をしっかり整備していくことが、これからの国土軸支えることだろうと思います。中心が会津になります。会津の地勢的なものは変わっています。 このことを意識してこれからの会津の地域作りに努めていかなければならないと思 います。

 就任直後に中国に行ってきました。湖南省の長沙という人口700万人の都市に重機メーカーで従業員3万人のズームライオンという会社があります。この会社 と(会津の)地元の会社が提携し、4月には販売、修理の合弁会社をつくり日本で事業展開したいという話が進んだのです。できれば日本で組み立てもしてほしいと思います。メインの機械は生コンの圧送車です。年間3千台販売し、昨年は5千台といっていました。中国も前の勢いはありませんし、販路を拡げるためにメードインジャパンを狙っています。これはキーワードと思います。中国の賃金はどんどん上がっておりまして、5年間で3倍から5倍、今後も3倍から5倍になるだろうということで、中国で物作りをするアドバンテージは疑問であるという方もいらっしゃいますので、会津に目を向けていただいたのはこれから流れが変わる兆しとも思います。新潟には中国の6番目の総領事ができます。しっかり情報交換させていただき、向こうの投資もいただきたいし、いろいろなものも売りたいと交渉させていただいております。会津若松ではなく会津全体のブランド品を中国に売りたいなと思います。いなかの都市とはいえ、グローバ ルな視点を持ち、生き残りをかけがんばっていくのが我々の課せられた課題と思います。   新任であり、十分なお話はできませんでしたが、我々は会津スクラムを組んで頑張ります。みやぎ会津会の皆様にも昨年同様ご支援、ご協力をお願いい たし、ご挨拶とさせていただきます。


 
講演年月日 講演者 演題
2011年6月6日 第8回例会 福島民報常務取締役
編集主幹 佐藤春雄氏
東日本大震災と福島の現状
佐藤春雄氏の講演
「東日本大震災と福島の現状」と題し、
福島民報社常務取締役編集主幹 佐藤春雄氏
のお話を伺いました。講演の要旨は以下のとおりです。
2017年12月15日改稿)

「東日本大震災と福島の現状」と題して、福島民報社常務編集主幹・佐藤晴雄氏のお話を伺いました。講演の要旨は以下の通りです。

 地震発生時(2011年3月11日午後2時46分)、私は福島市の福島民報社本社2階にいた。これまで経験したことがない、激しい長時間の揺れに生命への不安を感じながら耐えていた。気がついたら2階の編集フロアに残っていたのは私一人だけだった。

 新聞業界は今回の大地震で大きな影響を受けた。まず、新聞用インクの入手に影響が出た。新聞用インクは特殊なもので、メーカーが限られていた。何と千葉県にあるメーカーの工場が被災して製造がストップしてしまった。新聞用紙も、石巻港などが破壊されたり、福島県内の工場が被災したりして、新聞用紙の入手が困難になった。新聞発行は休まなかったが、一時はわずか8ページの新聞を出さなければならないこともあった。

 弊社では富岡支局、小名浜支局の建物に被害があったが、人的な被害はなかった。同じ福島県内の地方紙である福島民友新聞社では原町支社の記者1人が津波に巻き込まれて死亡した。報道関係者は、どうしても少しで現場に近づいて取材しようとする習性があって、津波が来そうだと聞くと海岸近くで取材しようとしてしまう。私も浪江支局にいたことがある。そのときに大地震に遭遇したら、海の近くまで出かけて津波にやられていたかもしれない。

 大地震の後、東京電力福島第一原発の事故で爆発するシーンがテレビで放送された。住民は着の身着のままで避難した。道路が混雑して、ふだんなら50分で着くところまで5時間もかかったという。途中で車のガソリンがなくなると徒歩での避難になったが、とても寒くて住民の避難は大変だった。

 マスコミ関係も、原発事故があった場合には「原発から◯◯キロ以上離れて避難する」などのルールがある会社もあって、社命で避難した記者がいた。いわき市では福島民報社一社の記者しか残っていないこともあった。他社の記者が避難したのに弊社だけ記者を残しておくのもどうかと考え、いったんいわき市から離れるように指示を出した。すると、いわき市内では「ついに福島民報も逃げた」「何らかの情報をつかんだので、逃げたのではないか」と話題になった。そこで、いわき市から離れた記者を、いわき市に戻したこともあった。

 他のマスコミ関係では、社命で山形県に一時避難したあと、福島県内に戻ったが、放射線を恐れて屋外に出られず会社を辞めた例が週刊誌で報じられた。また、別の社では、東京でも放射線が危険だとして会社を辞めて、子どもと一緒に関西に避難したという記者もいたようだ。

 医療関係でも福島県内の医療機関を辞めた医師が大勢いた。福島県立医科大学では合格者110人のうち11人が放射線を恐れて入学を辞退した。浜通りだけでなく中通りの高校生も山形県内の高校に転校したケースがあった。こうした例を踏まえて、県外の人たちは「原発から離れた福島県内の人たちも県外に避難しているのだから、福島は危険だ」と認識する事態になっている。

 原発から60キロ以上離れた福島市では飛来した放射性物質が、側溝などで比較的高いレベルの濃度で測定された。郡山市の小中学校では、校庭で児童生徒を遊ばせなかった。校庭の表土に放射性物質が付着しているからだ。校庭の表土を削って運ぼうとしたら、運ぶ先の住民からは表土を持ち込まないように言われている。学校のプールも周辺の農家からクレームがあって、プールの水を流せないでいる。これから暑いシーズンに入るのに、教室の窓も開けられない状況にある。

 日本には原子力発電所が数多くあるが、県名を使用している原発は福島と島根だけである。今回のような原発事故があると、あたかも福島県全体が放射能で汚染されたイメージでとらえられる。原発が立地した地方の名前、例えば「双葉原発」とネーミングしていたら、違った展開になっていたかもしれない。

 福島第一原発から約100キロ離れた仙台市の放射線量が毎時0.11マイクロシーベルト、ほぼ同じ距離にある会津若松市は0.17マイクロシーベルトと、ほとんど差がない。しかし、会津若松市への修学旅行を中止する宮城県の小学校が多い。このような中、名取市立ゆりが丘小学校では6年生118人が会津を訪れた。校長は事前に視察して安全を確認したうえで保護者を説得し、修学旅行を実施した。子どもたちに風評被害とはどんなことかを学んでもらいたかったという。

 こうした中で、最近では風評被害に苦しんでいる会津若松市が、観光庁の国際観光戦略拠点に選ばれる見通しになったという明るいニュースもある。ただ、蔵の街、ラーメンの街で全国的に有名な喜多方市では団体客が途絶えたという。同市では、農業体験や農家民泊などを通したグリーン・ツーリズムでも昨年は、小学校で15校の参加があったが、今年は1校のみだという。

 中通りでも飯坂温泉から土湯温泉近くまでのフルーツライン沿いにある観光果樹農園では、昨年は8000人の予約があったのに今年は300人に届いていない。福島名産のサクランボ、モモ、ナシ、リンゴなどは厳しい状況にある。私も東京にいる友人に毎年リンゴを送っているが、放射能汚染を恐れる、その友人から「今年は福島のリンゴは送らないで、いいから」と早くも言われている。福島県産の農産物への影響が心配される。

 今回の震災で製造業への打撃も大きい。建物、機械、設備が壊れて操業を停止したほか、今後の操業が困難になったところもある。工業製品の輸出では、放射線検査済み証明書を添付しなければならないケースもある。県内への新たな企業進出がなくなる心配があるが、県当局は「既存企業の県外流出防止に重点を置いている」という。

 福島第一原発事故の発生で、重大性についての事態説明の曖昧さが浮き彫りになった。「風評=物事の重大性×曖昧さ÷受け手の認識力」と言われる。今回は政府の発表の後出し、「直ちに影響はない」という曖昧な言葉などで風評被害を大きくしているのではないか。風評被害をなくためには、正しい情報を正しく出す必要がある。

 福島県に対する見方は当初、「かわいそう」であったが、一部で空気の流れが変わった。一つは、東京電力社長に対して「土下座しろ」と地元住民が怒鳴ったことだ。地元住民からすれば、このような気持ちは理解できるが、県外の人からは「やりすぎではないか」という声もかなり出たようだ。もう一つは天皇陛下の前であぐらをかいて、お会いした人がいた。足が不自由で正座できなかったのかもしれないが、テレビはその場面だけ繰り返し放送したため、福島県のイメージを下げてしまったのかもしれない。

 今は福島第一原発事故の一刻も早い収束が大事だ。県民も、へこたれないで頑張ることが大事だ。そうすれば、風評被害も低減できる。

  最後に福島民報紙面のキャッチフレーズ。「福島は負けない」



 
講演年月日 講演者 演題
2010年5月17日 第7回例会 前東奥日報社長 佐々木高雄氏 こちら側の志士・広沢安任
 佐々木氏は北京でお生まれになり、戦後旧満州から青森に引揚げてこられたとのこと。東奥日報に入社され三沢勤務のとき広沢安任のことを知り、「志」の何たるかを教えてくれ、歴史の本当の中身を教えてくれたのは「広沢安任」であったと述懐されています。
 お話は具体的で 躍動感に満ち、歴史に残る会津出身偉人の人物像が見事に語られています。
 以下に要旨を記します。
熱弁をふるわれる佐々木高雄氏
聞き入る会員

 会社をリタイアして5年たちました。青森郊外に住んでいてほとんど外に出ていません。会話がなくなると声帯が緩み、声がかすれていましたが、ここに来るというので1週前から訓練しやっと声が出るようになりました。お聞きにくいと思います。お許しください。

 斗南藩もそうですが意外と知られていないのが広沢安任という人物です。テレビで坂本龍馬を盛んにやっています。司馬遼太郎(の著書)もそうですけれど、志士と呼ばれる人間は全部西側の人間なのです。東軍の人間に志士と呼ばれる人間などいるわけがないという不届きな作家もおりますけれど、私はある意味で坂本竜馬や高杉晋作などむこうの人間以上に日本のことを考えた志士がちゃんと会津藩にもいた、その一人が広沢安任だと思っています。そういうことでお話したいと思っています。
 70歳半ばを過ぎてぼけが始まるのではないかと危機感を覚えており、年表なども準備してきました。できるだけ正確な話をしたいと思っています。

 広沢安任は天保元年(1830)に生まれました。会津藩の最下級の武士の出身です。2軒長屋で玄関にドアがついてない、筵がぶら下がっているような家に育ちました。幼い頃から兄たちと一緒に春は山菜、秋はきのこを採って家計の足しにしています。非常に頭が良くて勉強好きで、中級以上の武士が中心だった日新館に下級の武士から抜擢されて入っています。そこでめきめき頭角を現し、26歳になった頃藩から抜擢され江戸の昌平黌に入学します。(いまでいえば)東京大学に入るのです。そのころの昌平黌の学長は学問所創立の林羅山に連なる学頭林子平です。この人に目をかけられ、しかも成績優秀なものですから、二つあった寮のうち、西国の藩の寮長は長州藩の子弟、東国の藩の寮長は広沢安任が勤め、第一等の成績を修めて卒業します。
 ちょうどペリーが来ていました。会津藩は沿岸警備を申し付けられ、木更津に駐屯します。彼も木更津で警備隊員として勤め、ペリーの艦隊を眺めることになります。彼が外国に触れる最初のことと思います。彼は自身の知識の足らなさを身をもって感じ、水戸の藤田東湖のところに弟子入りします。そこでヨーロッパのいろいろな知識を仕入れます。

 幕府からも注目されていました。その頃日本を窺っている外国がたくさんありました。ひとつはロシアです。ロシアの使節団が函館に来て国境談判を始め、千島列島をよこせ、樺太をよこせといい始めました。幕府の国境談判の使節団は糟谷筑後守で、昌平黌を修了しただけでまだ無名の広沢安任が随員として抜擢されました。函館にはおよそ1年以上いました。談判の席に列席したり、暇なときには十勝地方まで歩いています。そのとき案内したのが蝦夷地探検家松浦武四郎です。松浦武四郎は後に北海道開拓使の判官になり、北海道という名前を作った人間です。この人間と一緒に松前藩とかアイヌとかを調べて歩くわけです。
 
 その最中の文久2年(1862)8月1日、松平容保公が京都守護職に任命されます。北海道に急使が来てすぐに帰れと命ぜられ、便船に乗って到着した品川から東海道を上京中の容保公を追いかけ三島で合流します。そこで「公用方に任ずる」といわれます。外交官兼秘書官のようなもので、容保公が守護職就任と同時に作った職制です。上級の侍は公用人、下級の侍は公用方といわれました。20人前後いたものと思います。容保公から秋月悌二郎とともに井伊直弼亡き後の彦根藩の動向を探れと命ぜられ先行します。探索の報告を受け、容保公は文久2年12月京都入りします。

 その頃京都では、自称勤皇の志士と称する不良侍たちが商人を狙っていました。そのような巷に入り、黒谷の金戒光明寺に本陣を張ります。彼(の任務)は007のようなもので、薩摩、長州の京都詰めの侍と仲良くなり、情報交換をやります。久坂玄瑞という長州の暴れん坊とも仲良くなり、あるとき道で会い、「関白にところに行っているか、行ってみろ」と紹介されたりしている。

 長州が騒動を起こして薩摩と会津が鎮圧した七卿落ちという事件がありますが、七卿の一人である東久世道禧が維新前夜という記録に面白いことを書いています。広沢安任に追われた公家さんの記述です。「会津に広沢富次郎(安任)という人間あり。有為の人物なり。その頃(の会津藩を取り仕切っていたの)は手代木直右衛門、秋月悌二郎なる人物なれどもこの二人は凡庸の人物にして秋月は学問あれど迂遠なり、手代木は無学にして少々俗才あり、広沢にあっては学識あって役に立つ男なり。大和行幸の勅命出るや秋月、手代木は大いに驚くのみ、なんともなすところを知らず。広沢はこれを聞きて我に一策あり、この局面を変じて見すべしという。」としてみごと大和行幸の長州の陰謀をつぶすのです。これだけ敵方からもほめられている人間なのです。

 姉小路公知という公家が田中雄平という薩摩の脱藩者に暗殺されます。田中雄平の潜んでいるところが分かり、広沢安任は京都守護職、京都所司代とともに逮捕に向かった。抵抗するものは切り捨てるということになっていましたが、広沢は自分に策ありとして一人で入っていく。田中は薩摩示現流の使い手です。「私は天皇の勅命で逮捕にきた。抵抗すれば直ちに切る。おとなしくいうことを聞けば侍なので縄をかけない。」その気迫に押され、田中は刀を差し出し連行されるのです。所司代で尋問が始まろうとしたときについて、「幕末会津志士伝」という本にすごいことが書いてある。「雄平やにわに傍らの大刀をつかみ、腹を二度刺す。二度ともその切先の背中に出ずるを見たり」と。その場にいた人間でなければそこまで書けません。

 元治元年(1864)佐久間象山が殺し屋に暗殺されます。そのころ広沢安任は象山と一緒になって、こんな危険な京の都に天皇を置いておくわけにはいかない、彦根に遷都しようという計画をたてていた。それを薩長の連中が聞きつけ、白馬に乗り黒い西洋マントを着て家に帰る途中の象山を襲う。象山は馬の首にしがみついて玄関にたどりつき式台に倒れこむ。そこに象山と会談のため広沢安任が来合わせた。奥から象山の奥さんが出てきます。奥さんは勝海舟の妹です。広沢安任は、「遺体を式台から奥の部屋に隠せ、式台の血を全部拭け、象山の藩には病気で亡くなったと届けよ(なぜかというとお家断絶になるからです、恥辱ですから)」と全部始末し、象山の家名を残すのです。

 文久3年(1863)から元治元年(1864)にかけ、薩英戦争で薩摩は英国に、馬関戦争で長州は英仏蘭米の4カ国に敗れます。自分たちの武器がいかに劣っているかということを身にしみて分かり、負けた英国から頭をさげて武器を買います。英国はアヘン戦争における清国と同様に、日本を席巻しようとする下心がありました。日本は長崎のほかに函館と横浜の3港を開港していましたが、更に京都に近い神戸を開けと要求し、フランスの軍艦などと共にデモを行った。これに対し在京47藩の留守居役により開港の可否に関する協議が行われました。薩摩の大久保一蔵も入っています。ほとんどが開港拒否という中で、広沢安任は、「西国であれほどの戦いをやって英国に負けた。いかにヨーロッパの文明が進んだものであるか、この文明を取り入れていかなければこれからの日本は生きていけない。」といって神戸開港の方向に逆転させてしまいます。それを知った岡山藩の花房義質という男が思わず激高して切りかかろうとし、それを止めたのが芸洲藩の同僚かあるいは大久保利通ではなかったかといわれています。

 この花房という男は明治になってから浅草などで広沢に似た人物が来るとわざとぶつかってけんかを売るほど広沢を憎んでいました。明治24年2月1日インフルエンザで広沢安任が62歳で死にます。その頃広沢安任は新宿角筈いまの伊勢丹デパートのあたりに100間×100間の牧場を開き、乳牛を育て牛乳やバターなどを作っていました。バターは日本郵船に納めていました。夏目漱石の先祖もあのあたりに牧場を作っていました。新宿御苑が農商務省の用地で近所だったのです。2月5日に葬式を出しましたが香典帳を見たら4日間に亘り毎晩花房が香典50銭を出している。あの憎き広沢の通夜に出ているのです。当時の人間たちを敵と味方という単純な区別をするわけにはいかないようです。
 葬儀では新宿角筈から青山の斎場まで行列が出ました。先頭が白馬に乗った明治天皇の供物、供花です。賊軍ですよ。恐らく会津藩士で明治天皇から供物・供花をいただいたのはそうないと思います。行列の先頭は榎本武揚、次いで牧野伸顕(大久保利通の次男)、渋沢栄一らでした。三沢の広沢牧場に墓がある。神道ですので火葬にしていません。その墓碑銘が土佐の谷干城です。みんな敵味方仲良かった証拠と思います。三沢で小さなささやかな葬式をやるのですがその見取り図が残っています。一角に乃木と書いてあります。乃木希典の弟です。千葉の御料牧場にいたが、兄とは似ても似つかぬ道楽男で乃木希典も手に負えなく、京都時代の薩長の士人との付き合いで知り合った縁で、三沢で牧夫として使ってくれといって広沢に預けた。彼はここで心を入れ替え、忠実な牧夫であったといいます。

 京都守護職詰めのとき忙しい身でありながら金戒光明寺の中に日新館の分校(学習院)を作ります。そこでヨーロッパの文明の知識を得させようとし、上級武士の子弟たちを何人かを勉強させるのです。その中から抜擢してヨーロッパ当時の英国とかプロシアとかに留学させる。その一人が山川浩です。

 戊辰戦争のとき広沢は、やっとの思いで京都から大阪にたどり着き、徳川慶喜と松平容保公が江戸に逃げ帰ったあと残った藩士を引率して和歌山に逃げます。ありったけの金で磯舟を集めさせ、傷ついた1800人を乗せ紀伊半島を回って津にたどりつく。津から親藩の桑名を経由し江戸に向かう。江戸に帰ってからは休むまもなく殿様の助命嘆願運動を始める。殿様は会津に帰るから残ってやるようにといわれ、南砂町に住み同士11名とともに助命嘆願運動をやる。尋常でいくわけがありません。そのうち江戸に西郷が入ってきます。明治元年閏7月、薩摩の益満休之助(ますみつきゅうのすけ)を使って江戸城に入り西郷に会おうとする。出てきたのは参謀の西郷の片腕とされた旧知の海江田信義(かいえだのぶよし)。「やはり生きていたか」、「助命嘆願書を持ってきた」、「少し待て」といって奥に引っ込む。官軍はいろいろな藩の集合体です。そこで広沢を知らない藩が「会賊」がいたといって捕まり、それまで執務していた会津藩上屋敷に収容される。さらに伝馬町に移される。伝馬町では首切り朝衛門がばっさばっさと首を切っていた。牢屋の中は惨憺たる状態であった。これを聞きつけたのは英国大使館のアーネスト・サトー一等書記官です。彼は、日本の侍は意地汚くて好色で酒飲みで、どうにもならないやつが多すぎるという批判を書いています。アーネスト・サトーの護衛役をやったのが野口富蔵という会津藩士であった。その縁があってあるとき江戸でアーネスト・サトーと広沢が会って話をしています。アーネスト・サトーは、「この男は会津藩士で、かなり腰をすえて日本の現状について話した」と書いています。広沢という人間の人となりを見破っていました。それで広沢が捕まり伝馬町にいることを知って、木戸孝允に「維新の大儀とは何か、これからの日本にとって有為な人間を殺すとは何事だ」といって彼を助ける。囚われていたため彼は鶴ヶ城の戦争には加われなかった。武士としての死に場所を選べなかったわけです。

 獄舎から解放され会津に戻ったとき、会津は28万石から3万石に落とされ、猪苗代の北か下北半島かどちらかを選べといわれていました。猪苗代の北の炭焼きをやるしかないような土地では、とても1万7千人が食べ暮らせるわけがありません。そのとき広沢は土地があるのだから下北に行こうと皆を説得し、反対を押し切って下北に行くのです。そのうちの一部は陸軍省が屯田兵のつもりで北海道に連れていった。長万部とか瀬棚に押し込められ惨憺たる目にあいます。また樺太まで行かされようともしています。

 明治9年7月の天皇行幸で天皇がまだ三沢にいるとき、大久保利通は先行して野辺地に泊まります。朝5時に起き、県の知事を連れ馬で自分から三沢の牧場まで広沢に会いに行く。相手は賊軍である。広沢は牧場の入り口で、野良着で腰に大きな鎌をぶら下げて待つ。一晩泊まりで話し込みます。酸っぱくなったドブロク、固くなった身欠きにしん、古くなった豆漬、それしかなかったそうです。それを大久保に食わせました。大久保は、「農商務卿をやってくれないか」というが、広沢は「野に尽くす」と言って断ります。
 明治14年には松方正義大蔵卿が来て1週間泊まった。彼もまた農商務卿をやってくれないかと頼む。これも断ります。
 そのあと谷干城農商務卿が北海道開拓使長官をやってくれないかと要請するがこれも断る。

 彼には別の希望があった。彼は探検家になりたかった。明治18年畜産協会を作ってそこの理事長のとき東京で渋沢栄一日銀総裁に会い、「1800円を貸せ」「何に使う」「南洋探検をやりたい。」「未だ時期が早い、もうすこし待て。」といわれる。彼の望みは実現しなかったが3代目の春彦という人間がスマトラ島に木材の輸入会社を作る。2代目の弁二(べんじ)はやはり畜産協会に入り、アメリカに行って種馬25頭、牛や豚・鶏を輸入している。今の日本畜産業の基礎を作り競馬の振興に尽くし東京獣医学校長に就任したのは2代目の弁二でした。
 たしかにつらい、つらい思いをしている。斗南藩というのは3万石といいますが、実質は7千5百石しかなかった。どうして暮らせますか。だから鳩侍とかいろいろなことを言われ、刀をつぶして鍬を作ったほどの苦労をしました。
 まだまだいろいろな話があります。
 いろいろな会津藩関係の本がありますが、非常に珍しい本を見つけました。熊田葦城著「幕府瓦解史」という本で、大正4年に刊行されています。報知新聞の記者が連載したものをまとめたものです。ここに「凡そ著書は勝者に厚くして敗者に薄きの感なきにあらず。」と書かれ、この本「幕府瓦解史」は逆である、つまり敗者に厚くしていると言っています。このあとがきを最後に紹介したいと思います。

 久しきものは倦み、倦むものは衰ふ、是れ勢いなり。
 勝つものは驕り、驕るものは亡ぶ、亦た是れ勢いなり。
 幕府の倦みて、驕るや久し、その前途唯衰亡あるのみ。
 幕府衰亡の勢既に成る、故に之を倒すは易く、之を支ふるは難し。
 薩長は其易きを為さんとす、故に労少なくして能く功を成す。
 会桑は其難きものを為さんとす、故に労多くして、却て罪を招く。
 然らば即ち薩長は智にして、会桑は愚なるか。
 否な、何ぞ然らん、唯其境遇、位置の之をして然らしめたるのみ。
 会桑をして薩長の位置に立たしむれば、亦た能く薩長の功を成さん。
 薩長をして会桑の境遇に在らしむれば、亦た終に会桑の罪を招かん。
 勝つもの以て誇るに足らず、敗るるもの以て悲しむに足らざるなり。
 夫れ六国亡びて二十年、秦も亦た亡ぶ。
 今や薩長権を執ること実に四十年、豈に勝ちて驕り、驕りて亡ぶるの勢いなきか。
 嗚呼驕るもの久しからず、和漢皆然り。

 つまり勝った人間だけの世なのかということなのです。負けた人間ほどちゃんと国を考えていたということをこの新聞記者は書いています。
 今数ある本はすべて薩摩や長州のいいことばかり書いています。この本の識語を紹介して広沢安任の話をしめくらせていただきます。
 ありがとうございました。


 
講演年月日 講演者 演題
2010年1月25日 第3回総会 作家 星亮一氏 会津の人・心・歴史
(講演要旨)
「宮城県仙台人」と自己紹介
聞き入る会員
「白河から撤退」と手振りを交え熱弁
星 亮一氏 プロフィール
1935年 仙台市生まれ
東北大学文学部国史学科卒
日本大学大学院総合社会情報研究科修士課程終了
歴史作家
主な著書
「会津籠城戦の三十日」、
「アンガウル、ペリリュー戦記」
(以上 河出書房新社)
「坂本龍馬その偽りと真実」(静山社文庫)
「謀略の幕末史」(講談社+α新書)
「偽りの幕末動乱」、「偽りの明治維新」
(以上 だいわ文庫)
「幕末の会津藩」、「奥羽越列藩同盟」、「会津落城」
(以上 中公新書)
「山川健次郎伝」、「後藤新平伝」
(以上 平凡社)
「龍馬が望まなかった戊辰戦争」(ベスト新書)
「鳥羽伏見の砲声」、「会津藩斗南へ」、
「仙台戊辰戦史」、「白虎隊と二本松少年隊」
(以上 三修社)
など
職歴
福島民報記者、福島中央テレビ報道制作局長


  私の父は丸森町、母は亘理の出身で、私は宮城県仙台人と思っている。いまは福島県郡山に住んでいる。会津との付き合いは、20代の福島民報記者時代に会津若松に転勤になってから。初めは、どうして会津に転勤になったのかと嘆いたが、行ってみたら非常に良いところで皆さんから親切にしていただきすっかり会津のとりこになった。あの時会津に行かなかったら今の私はなかったと思っている。

 テレビで話題になっている坂本竜馬は長崎時代に会津人と付き合っている。神保修理という会津藩家老の息子で、京都から長崎に派遣されていた。二人は長崎の居酒屋で意見を交わし、「会津は薩長嫌いで話がかみあわないが、神保修理は非常に幅のある男で珍しい男だ」と竜馬は書いている。坂本竜馬は自由人で、日本の中で喧嘩をしていてもしょうがない、薩摩、長州も会津も仲良くして新しい日本をつくろうと考えていた。大政奉還だ。会津藩とも協議し、「新しい日本をつくるために薩摩、長州や会津の垣根を乗り越えていこう、会津藩も協力してくれ」といい、会津も「わかった、我々もいつまでも幕府側にこだわっているわけじゃない」といい内々話を進めていた。会談には竜馬と後藤象二郎、会津藩の重臣が参加、その中に神保修理が加わっている。
 小松帯刀という薩摩藩家老が京都におり、会津藩、幕府との話し合いに入っていた。なかなかの人物で、「竜馬の意見に賛成だ。薩摩も保証するから徳川慶喜が大政奉還した後は慶喜をとりあえず初代の総理大臣として新しい日本を作り、会津藩も官僚に入ってもらう」といっている。竜馬はそういう工作を進めていた。土佐の話だけじゃ危ないが、薩摩も同意しているということで会津藩は了承、徳川慶喜も了承して将軍職の辞表を天皇に出した。大政奉還だ。これがくせものだった。簡単に辞表を出しちゃだめ。辞表を出したらただの一大名になってしまう。大政奉還を出したとき裏にいたのが西郷隆盛とか大久保利通だ。小松帯刀と坂本竜馬の役割は、慶喜をだまして大政奉還をさせるまで。大政奉還の後竜馬は殺され、小松帯刀は京都から鹿児島に追われる。西郷隆盛、大久保利通は大政奉還後の政権構想など私たちは知りませんということになった。

 その後、薩摩が軍事クーデターを起こし、徳川慶喜と松平容保の京都追放を決めている。決め手になったのは天皇陛下の勅許だが、天皇陛下が書いたものでも印鑑を押したものでもない。西郷たちで勅許を作り天皇陛下の命令だ、このとおり天皇陛下の許可も得ているといってクーデターを起こした。
 だましたほうが悪いのか、だまされたほうが悪いのかという議論はあるが、この場合、幕府は軍隊を京都に派遣し、様子を見ながら大政奉還を行うといった策が必要だったと思う。ところが徳川慶喜は独断に近い形で大政奉還を行い、江戸で何を血迷ったのだと驚いた時には既に遅かった。大騒ぎになって幕府の軍隊が京都に駆けつけ、鳥羽伏見の戦争が起こる。これがあっという間に負け、事実上幕府は崩壊した。松平容保は京から会津への手紙で、「我々のこれまでの努力はみな無駄になった。これほどこけにされた以上は最後の一兵まで戦う」といっている。会津の人たちは京を追われ、江戸に戻った。

 江戸では、勝海舟と西郷隆盛の会談が始まる。西郷は勝の子分、竜馬も子分だ。勝海舟はある時から反体制派で、幕府は潰れたほうがよいと公然といっていた。彼は旗本であるが下級なので絶対トップにはなれない、海軍大臣になろうとしても次官、局長止まり。それは身分が低いためで、身分制度の強い幕府は駄目だといっていた。竜馬、西郷に、こういう幕府は倒したほうがよいと言っている。竜馬も西郷も驚いて、この人が言うのだからひょっとするかもしれないと思っていた。

 私は次のように推理している。薩長はいまのお金にして何千億円という金をつぎ込んで倒幕運動をしていた。鉄砲一挺でも外国から買うから膨大な金がかかる、軍艦、弾薬、兵員への手当てなどに、何百億円ものお金を使っている。戦争は終われば戦利品がないと始末がつかない。部下たちへのボーナス支払い、身分の保証その他もろもろかかる。その意味で西郷は困っていた。それからが問題だ。勝は、「東北があるではないか、会津藩が23万石、仙台が62万石、占領すれば相当な価値になる。向こうに行って御覧なさい」と言ったのではないか。「京都で騒乱が起こったのは会津藩のせいだ、会津藩は幕府の名代として京都に行ったが薩摩、長州とのトラブル続きになりこのような事態になった。混乱の責任は会津藩にある。どうぞ向こうに行ってやってください」ということになったと思う。

 その後会津藩は会津に帰れと命令が出た。京都から追われ、江戸からも追われて会津に戻ることになった。江戸の市民は会津に同情的だった。どこから考えても会津のほうが正義だ、薩摩長州は謀略で偽の勅書を作り、罪を会津に擦り付けたと。
 そして軍勢は会津に攻めてくる。まず仙台にきて、奥羽鎮撫総督府・世良修蔵は仙台藩に会津を攻撃しろと命令を出した。仙台藩は、なぜ我々が会津を攻撃しなければならないのか、でも官軍様の言うことだから半分くらいは聞かなければならないかとしたものの、おかしい、会津が朝敵という理不尽な話はないとして会津支援に立ち上がる。会津を支援し、薩長に対抗する新しい政権を作ろうと仙台藩は政権構想をたてた。北方政権である。天皇に輪王寺宮を擁立し、閣僚名簿を作り、白河、新潟から北海道を含めて新しい国家にしようとし、外国にも連絡する。独立宣言である。すごい構想だった。こうして日本に当時2つの国ができた。薩長政権と仙台を盟主とする北方政権。
 初戦は白河だというので仙台から大部隊を派遣した。会津と連合軍をつくり、絶対ここからは薩長をいれない、新潟のほうは河合継之助が頑張って入れないということになった。こちらは新潟も入れて七県、薩長は二県である。数の上からみても勝つといったのだが、戦争が始まったら一日で負けてしまった。大誤算である。戦争は勝たないと駄目、勝てばお金も人も寄ってくる。負ければ逃げる。会津藩総督は家老の西郷頼母、松平容保と仲が悪くて、京都守護職時代は蟄居させられていた。会津藩は越後に軍隊を出して優秀な人材がいなくなっていた。松平容保は人が良い。西郷頼母に機会を与えようとしたのかもしれない。仙台藩が援軍を出したので安心してしまったところもある。攻めてくる薩摩を主体にした兵隊は千人弱、こちらは三千人、堂々と迎え撃つと西郷頼母はいったが、新選組などの戦闘経験者は、白河城のような狭い城に籠るのはだめだ、那須方面にゲリラ部隊を出して夜襲をかけるべしといった。ところが西郷頼母はならぬ、会津武士はそういう卑怯な真似はしない堂々と迎え撃つとした。
 薩摩の伊地知正治は住民に金を与えて城の中、裏道などを調べ上げ、住民を先導役にして、夜白河の町の中に7連発銃を持った狙撃部隊を160箇所くらい配置した。朝戦争が始まり、会津・仙台軍隊は勢い込んで攻めるが、周りに狙撃兵が潜んでいることは知らない。木の陰、土蔵の陰などに潜んでいる狙撃兵が会津・仙台兵を横から撃つ。まるで鶏を撃ち殺すような状況だったという。無警戒なまま裸で飛び出して横から撃たれてしまう。
 作戦が不十分だったのではあるが、仙台藩の一部の者は鎧兜をつけ、偉い人は赤い陣羽織などを着て行っている。向こうは、陣羽織をつけた指揮官から撃てという指令を出しているので指揮官が最初にやられる。兵隊は指揮官がいないものだから烏合の衆になってしまう。また、仙台藩の陣地は旗を立てており、そこを目標に大砲に撃たれた。仙台の戦争体験は大坂冬の陣まで。それ以来戦争がなかった。それに対し向こうは、幕府や外国の軍艦と戦争していて百戦錬磨だ。戦略も外国の戦術を翻訳して勉強している。小銃隊は隠れて撃て、立っては危ないから腹ばいになって匍匐前進しろと。ところがこちらは目立つようにのぼり旗を持ち、赤い陣羽織を着て真っ直ぐ走るという戦国時代の戦法だ。だから一瞬のうちにやられてしまった。
 仙台藩はうろたえた。最初に大変なことになったと考えたのは水沢の兵隊。あっという間に2・30人が殺された。こちらは火縄銃、向こうは七連発銃、とてもやっていられない、会津には申し訳ないけどなにか策がないかと考え、南部が寝返り水沢に攻めてきた、大至急帰るべしという策略の指令書を出した。白河で持ちこたえるような戦法をとっていれば水沢の人が逃げるようなこともなかった。
 ここは会津藩がもっと頑張るべきだった。会津の人にはやや厳しい言い方になるが、秋月悌次郎という会津の学者は「一番戦闘経験のある会津があそこで頑張るべきだった」と言っている。戦後、戦犯として東京に送られ、白河を通るとき、「ここが全てだった。ここで勝ってさえいれば我々の運命は違っていた」と嘆き、文章に残している。会津は米沢に援軍を要請にいったが、米沢は、「我々は会津を信じて同盟に加わった。信じた会津が初戦で敗れ応援を求めるというのはどういうことだ」といって、応援を出してくれなかった。

 白河というのは昔から鬼門だ。平泉もその昔も、あそこを突破されるとずるずるといってしまう。今回もそういう状況だった。結局、仙台藩は藩内が割れ、米沢も割れてしまう。明確にやめたと言ったのが秋田藩。新潟では新発田藩が同盟を離脱し、中通りでは三春藩が後ろから鉄砲を撃ったりするので最終的には列藩同盟は瓦解する。西軍は仙台に使者を送り、仙台藩は戦線を離脱した。
 仙台が引いたので薩長はずいぶん助かった。恩返しに、東北線を早くひいたり、東北大学を作ったり、第二師団をつくったり、第二高等学校を京都の前に仙台に持ってきたり、ずいぶん仙台に投資している。仙台の戦線離脱はある種の判断力だといえなくもない。市街戦をやって会津のようになるよりはという判断が仙台にあったのだろう。それはそれでやむをえない。
 そういう中で最後に残ったのは会津だけだった。我々は義のために全員討ち死にの覚悟で戦う、全ての判断を後世に託す、死んで百年後の審判を待つとして千人以上が籠城戦に入った。これはすごいこと。
 籠城戦には婦人子供もいっぱい入っており、皆どんどん死ぬ。最後は、容保の判断で私の命を出してもいいから開城しようということになった。

 戦争は終わった。日本人同士の戦争だから、会津も良くやった、あとは仲良くしようとなるのが普通なのだが、埋葬は許さない、全員下北半島に飛ばすということになり、会津の人たちはいまだに長州とは絶対に和解をしないと頑張っている。私は仙台人だから、いつまでも長州反対っていうこともどうですかね、などというと、お前は仙台の癖に余計なことを言うなといわれる。若い経営者と話し合うと、この線で行ったほうが良いとみな言っている。「仲良くしてにこにこ手なんか握って何がいいのか。先人が遺書まで書いて戦い抜いたということを大事にするのが会津のアイデンティティであり、絶対に欺瞞に満ちた長州を許さない。これは当然だ。それを称えることによって、会津に行きたいと思う観光客が年間何十万人と来る。飯盛山には線香の香りが絶えない、このブランドを下げる必要ない」という意見で大体一致している。一つの国家的な犯罪であると私も思っている。日本政府が謝罪をしてあの処置は誤りであったということを言わない限りは、簡単に長州と和解はしないと私は感じており、会津の人たちはそう思っている。

 白虎隊士で自刃後甦生した飯沼貞吉さん、本日子孫の方が会場にお見えになっているが、彼は晩年を仙台で過ごされている。蘇生後3年間ほど所在地が不明だったが、最近の調査で、長州藩士楢崎頼三に連れられ長州藩・美祢に行ったという説が出て、私も美祢に行って関係者に話を聞いてきた。これは事実と思う。会津藩の中で長州藩・薩摩藩の世話になって勉強した若者は何人もいる。当時会津には勉強する機会が全くなかったし、食べるのさえ不十分だった。柴五郎の「ある明治人の記録」では、履く物がなくて冬裸足で歩いていたとか、とにかく大変苦しい生活だった。チャンスを得るためには、薩摩であれ、長州であれ飛び込んでいくという若者が何人かいたのだ。飯沼貞吉がどう考えたのかわからないが、彼は長州で楢崎頼三の援助を受けて勉強し、逓信省に入ったのではないかと思っている。長州の人が皆悪いというわけではない。山川健次郎先生も長州藩の奥平謙輔の書生になって勉強を始めている。
 国家的な犯罪と個人的な友情、付き合いはまた別であり、そういう意味で長州とも話し合える余地はあると思う。



 
講演年月日 講演者 演題
2009年11月9日 第6回例会 東京農工業大名誉教授 小原嘉明氏 利己的遺伝子と会津の心
 
小原氏熱のこもった講演
講演に聞き入る参加者
小原嘉明氏のプロフィール
・1964年 東京農工大農学部卒
・1986年 東京農工大教授(理学博士・専門は行動生物学)
 この間九州大学、英国・ケンブリッジ大学、ニュージーランド・ワイカト大学にて研究。
・現在 東京農工大名誉教授・東北学院大学非常勤講師
・著書に、「動物の行動」(岩波書店)、「イヴの乳」(東京書籍)、「モンシロチョウ」(中公新書)など多数
 小原氏は、「宮城会津会でのお話ですので何らかの形で会津に関係づけてほしい」との要望を受け、「多少の無理をして『「利己的遺伝子」と会津の心』の演題とした」と述べられ、以下の講演を行なわれました。(要旨)
(1)動物の「生」の目的と利己的動物観・利他的動物観について
 動物が生を営む目的は、従来は利他的動物観すなわち自己の利益より集団の利益を優先し、集団の繁栄に寄与することと考えられていた。しかしこの考え方は、自己を犠牲にする個体は自己の子孫を残す確率が低いという理論的弱点と、多くの実証的研究によって否定された。
 これに代わって現在は、利己的動物観すなわち集団の利益より自己の利益を優先するという考え方が定説となっている。つまり、動物の「生」の営みの目的は、究極的には自己の繁殖成績の最大化(次代に遺す自分の子の数の最大化、または自己の遺伝子の複製の最大化)である。
 その後ある種の動物において、他者に自分の餌を分け与えるという、利他的行動とも受け取られる行動が観察されたが、詳しい研究により、この利他者は餌の取得に失敗したときに、以前に餌を分け与えた個体からお返しの餌分配を受けることが明らかになった。つまり、相互に餌を分配し合うこの行動は時間差を伴った互恵的利他行動であり、それによってお互いの生存率が著しく向上することが判明し、この行動は自己の生存率を高めるひとつの生存戦略で、基本的に利己的動物観に反しないことが分かった。
 この他者を信じて施しを行い、自らは裏切ること忌避する性質は、会津に生まれ、会津に根付いてきた「会津の心」に通じるものとみなすことができる。
 ただしこの互恵的利他行動の弱点は、時間差を伴う協力行動であるがゆえに、最初の受益者による裏切りの危険が大きいことである。しかし「囚人のジレンマ」モデル等の研究により、「会津の心」をもって他者に対応する個体が、同じ心を有する個体と「内輪づきあい」をすることなどによって、利己的に自己の利益のみを追求する個体を凌駕して繁栄し得ることが明らかにされた。
(2)利己的遺伝子の世界観:生命は半永久的
 前述の、動物は基本的に利己的に振舞うという認識は、現在では一般的になっている。この認識に立ちはだかる唯一の観察事実は、人間も含め、動物一般に認められている、親の子に対する無償の奉仕や、兄弟姉妹などの血縁者間の自己犠牲的、利他的奉仕である。しかしこれについても、動物の血縁者はある確率(例えば兄弟姉妹間は0.5の確率)で遺伝子を共有することを指摘した研究よって、利己的動物観に反しないことが明らかになった。すなわち血縁者の利他的行動は、ある確率で遺伝子を共有する血縁者というと特殊な個体の中に宿る自己の遺伝子の生存と繁殖を支援することであり、それは即ち利己的行動であることが判明したからである。
 またこれらの研究は、動物本体と遺伝子の立場を逆転させ、従来の生物観を一変させた。それは生物の本体は自己複製子(自己複製をし続ける物質系)であること、すなわちそれは遺伝子であり、我々が目にする形を持った生物は、生物の実体ではなく、遺伝子を次代に送る「遺伝子の乗り物」あるいは「遺伝子の仮宿」であることを暴き出した。「利己的遺伝子」と俗称されるこの生物観は、生物観を一変させただけでなく、生物(遺伝子)は半永久的に生き続けている、というあがない難い事実を明らかにし、それによって人間の死生観にも重大な影響を与え始めようとしている。「利己的遺伝子」説はおそらく、そう遠くない時期に21世紀最大の科学的発見のひとつとして評価されるだろう。


 
講演年月日 講演者 演題
2009年4月07日 第4回例会 会津天宝醸造
代表取締役会長
満田政巨(みつたまさお)氏
今伝えたい会津の心

満田政巨(みつたまさお)氏のプロフィール
生年月日
(略歴)
昭和26年3月
昭和50年3月
昭和58年4月
平成6年4月
平成14年3月
平成9年9月
平成9年11月

平成9年12月

(現在の活動)
昭和5年1月7日

福島大学経済学部(現経済経営学類)卒
会津天宝醸造椛纒\取締役就任
潟eレビユー福島取締役就任
全国味噌工業共同組合副会長就任
会津天宝醸造椛纒\取締役会長就任
障害者雇用「労働大臣賞」受賞
食品産業優良企業食品産業部門「農林大臣賞」受賞
日刊工業新聞社「優秀経営者地域社会貢献者賞」受賞
(有限責任中間法人)会津能楽堂建設協会代表理事

   満田政巨(みつたまさお)氏の
   ユーモアを交えた講話
講話に聞き入る参加者
  「会津能楽堂建設資金寄付金」を贈呈する
  須佐会長と満田氏
 満田氏は、はじめに、「満田家は蒲生氏郷の会津転封に同行した家系で、維新後許しを得て醸造業を営むことになった。」と家業を紹介されました。その後、現在会津能楽堂建設協会代表理事として建設を進めておられる「会津能楽堂」について、「建設資金のうち募金目標額は1億1千万円で現段階で約7千5百万円集まったがまだ約3千万円強不足している。各方面に支援をお願いしており、さらなるご協力をお願いいたしたい。建設地は市有地で建物は完成後市に寄付する。用材はすべて熊本城本丸御殿復元工事と同じヒノキを用いており、100年、200年と将来に残るものにしたい。」と話されました。
 その後、「今伝えたい会津の文化」と題し次のように語られました。(要旨)
 まず会津の食の文化について。
 会津の地は農作物に適している。盆地であるので’やませ’がなく’冷夏’にならず温暖である、そして山に囲まれ水が豊富である。そのため米を主体とする農作物のほか果物も豊富である。しかし米の消費は減っている。食事は終戦後、パン、肉、ハンバーガーなどの洋食系に変換が進み、かつて一人当たり年間120kg消費した米は現在60kgに減っている。減反が進められ農家は困っている。
 そのような中で農村のお役に立ちたいと考えている。豆、雑穀から味噌を作り北海道から沖縄まで販路を開拓、50億円を売り上げるようになった。味噌の用途は味噌汁だけでなく工夫を凝らし、おかず味噌として「肉味噌」、「ねぎ味噌」、「にんにく味噌」などの新商品を開発、売り上げを伸ばしている。そして農家の方が豊作貧乏にならないよう契約栽培を行い、不況の中でも成長を続け、信頼感でつながるようになった。
 山都・猪苗代のソバ、喜多方ラーメン、おいしい米、豊富な果物など会津は本当に良い土地であるが、国全体の食料自給率は40%未満、農村は高齢化が進んでいる。一方、都会と地方の格差が拡がる中、この不況で会津に工場を置く大企業も苦境に見舞われており、会津若松市も大変である。これを機会に、金の卵といわれた若年労働者を食糧危機に備え農村に戻し、農民が安心して生産できるよう農商工の連携を図っていくことが大切である。生産したものを売ることが大切で道の駅での販売拡大など更に仕組みつくりに知恵を出し、農と消(費)の間のブリッジ役を果たしていきたい。
 次に会津能楽堂について。
 前に述べたように地域の格差が拡がり、会津も人員整理で大変である。このような中観光に活路を見出していかなければならない。会津は観光資源が豊富、年間600万人は招くことができる。大内宿には150万人が来て混雑している。仏都会津としても有名であるが、ダム、風力発電、地熱発電も見てもらいたい。
 今回完成する会津能楽堂は、演能のほか東山芸妓の舞、彼岸獅子大会、念仏踊りなど間を置かず小さなイベントを上演し、外国の観光客も招くなど会津観光の目玉になるべく活性化に努めていく。
 


 
講演年月日 講演者 演題
2009年1月26日 第2回総会 会津若松市長 菅家 一郎氏 会津の現状と展望

 特別講演会で菅家市長は、会津の現状と展望」について次のように語られました。(要旨)
 昨年の会津を振り返ると、戊辰140周年の節目の年にあたり、野口英世アフリカ賞第1回授賞式が行われたほか、ふるさと納税制度を活用する鶴ヶ城復元計画を公表した年であった。
 会津圏の人口は平成10年の33万人が平成20年には30万に減少しているが所帯数は微増しており、核家族化が進んでいる。人口減少は会津若松市を含めた全市町村の現象である。
 市町村の合併が進み、平成16年の28市町村が現在17市町村になっている。
特別講演「会津の現状と展望」の中で、評判になった「あいづデスティネーションキャンペーン」のポスターを紹介する菅家一郎会津若松市長 会津の現状と展望を話される菅家会津若松市長
お話に熱が入る菅家市長 会津の自然・歴史・文化の話に聞き入る会員

 観光客の入り込み数は、会津圏全体の統計がないので会津若松市のみの統計であるが、ピーク時平成4年の380万人が平成11年には270万人に落ち込んでいた。これが平成16年から上昇に転じ平成19年には350万人まで回復している。これはJRグループと地元がタイアップし平成17年7月から9月にかけて展開した大型観光キャンペーン‘あいづデスティネーションキャンペーン’が起爆材となったものである。このキャンペーンは当時の会津21市町村が連携して推進したもので、道県以上の単位での開催が基本であるこのキャンペーンを県内の1地域で開催したのは初めてであった。(編集者注:京都市を除く)
 キャンペーンでは‘仏都会津’をPRした。湯川村「勝常寺」の国宝薬師三尊、新宮熊野神社の「長床」には多くの観光客が訪れた。その後名僧徳一ゆかりの「慧日寺」では磐梯町により金堂が復元されている。また会津の特色ある「食・自然・歴史・文化」を会津地方一丸となってPRし伝統イベントを観光資源に取り上げるなどが功を奏して記録的な大成功になった。成功のキーワードは「(各市町村の)連携」である。
 この成功を受けて会津17市町村からなる「極上の会津プロジェクト協議会」を立ち上げ、プロジェクト事業の継続を実施することになった。エリア内施策として周遊・滞在型の基盤整備事業を行うとともに、近隣県・エリアとの広域連携を図っていく。広域連携は、日光・会津観光軸元気再生プロジェクト、会津・米沢地域観光圏整備計画、甲子トンネル開通による南会津・白河間交流などである。
 新工業用地整備では河東地域に造成中で平成21年度中に分譲を開始する。このほか会津名産漆器のレンタル事業、清酒消費拡大事業を推進している。
 会津若松市についていえば今年は市制施行110年の年に当たり、‘城下町会津まちづくり寄付金’を募り鶴ヶ城の赤瓦化を実施していくほか、城周辺のグランドデザイン作成事業にとりかかる予定である。
 今後ともみやぎ会津会の皆様の郷土へのご理解とご協力を賜りたい。



 
講演年月日 講演者 演題
2008年11月10日 第3回例会  轄K楽苑代表取締役社長
 新井田 傳氏
会津藩の教えで世直しを
 
新井田氏のプロフィル
 会津若松市出身、昭和19年5月生まれ64歳、
 福島県立会津高等学校、東京服部栄養学校卒業後ご父君の設立された味よし食堂(現幸楽苑)に入店
 昭和45年轄K楽苑を設立代表取締役専務、昭和53年代表取締役社長、その後代表取締役会長を経て現在は再び代表取締役社長
 この間郡山商工会議所常議員、現在同商工会議所副会頭
 平成20年6月には福島県経済功労賞を受賞
 著書に「なぜ取締役を目指さないのか!−390円らーめんで一部上場した男の哲学−」 轄煌E21発行

轄K楽苑の概要
 創業昭和29年、事業;らーめん店のチェーン展開
 資本金26.6億円、従業員数(正社員・パート含め)3,800人強
 本部;郡山市、工場;郡山市・小田原市・京都府
 店舗数;430店舗(1都2府26県)、売上高;328億円
 平成14年東証第二部上場、平成15年東証第一部銘柄指定
 氏はまず会社の略歴を述べられてから、外食産業の現状と今後の見通し、会津の伝統、会社における教育及び薩長への出店などについて次のように語られました。(要旨)
 外食産業界は、ファミリーレストラン、ハンバーガー、居酒屋・回転すし・牛丼など大手チェーン店の寡占状態で成熟しており、伸ばすべき業界売上高は残っていない。ハンバーガーではマグドナルドが68lのシェアを獲得している。一方らーめん業界は個人店が83lを占め大手というものがなく、チェーン店が業績を伸ばす可能性を大きく秘めている。日本のらーめん市場規模は7,000億円で、このうち50lのシェアを獲得できれば3,500億円の売りあげになる有望な市場である。
 現在の当社の400店舗を2年後には500店舗、10年以内には1,000店舗とし、らーめんのマグドナルド版を完成させたい。そのときには北海道から九州までの店舗展開となる。現在の3工場の生産能力は1,000店舗に対応できるようになっている。
 そのためには、マグドナルドが世界のどの店に行っても @価格が安い、A品質が安定してる、Bサービスが良い、C清潔である、というの4つの条件を満足させてシェアを確保しているように当社もこの4つの条件を遵守して店舗を展開していく。この条件を1,000店舗においてマネジメントできれば海外出店は可能になる。韓国人はインスタントらーめんが大好きである。中国では日本のらーめんは「日式らーめん」と呼ばれブームになっている。アメリカはカップヌードルの消費量が多く、パリではラーメンの繁盛店がある。しかし価格は高く、店は汚い。ここにチャンスがある。世界中に幸楽苑の看板を掲げたい。

新井田氏の熱のこもった講演 会場風景 左奥新井田氏、手前プレゼン操作
 出身地会津は心の拠り所である。会津魂を全国に普及させ世直しができたらうれしい。バブルの時期から今日まで三流政治が続いた。内閣総理大臣の就任期間は平均1年4ヶ月。これでは良い仕事ができるわけがない。この二流・三流の日本の将来を若者に託すためには歴史に学び日本を変えていかなければならない。会津藩の歴史がそれを教えている。幕末には悲劇の一因にもなったが、会津藩は藩祖保科正之公の教えを日新館での教育を通して200年余守り通した。このように教育の力は偉大である。清貧の教えを我々が伝播していかなければならない。
 現在社長業の80lを社員採用、教育の業務に投入している。毎年100人の大卒を採用しているが、会社の発展は教育のいかんに懸かっており、純粋・純真な人材を教育するのが一番である。鉄は熱いうちに打たなければならない。当社ではこの結果人材の蓄積が進み、当社の離職率は23lで、一般会社平均の38l、外食産業の51lを大きく下回っている。学校では十分な教育ができていない。分からないのではない。教えられていないのである。教育は企業で、会社で学ばせなければならない。
 明治8年生まれの祖母に、会津は賊軍ではない、天皇をお守りしたのだ、薩長を許してはならないと常に言われて育った。この会津人の誇りが私の信念に結びついている。らーめんのマグドナルドを目指す1,000店舗展開の中で、薩長の中心地に幸楽苑の看板を立ててみせる。会津人の意地を見せ、繁盛させて地元の人々に素晴らしいらーめん屋であると言わせたい。

薩長への出店について 講演が終わり質疑の場面
 この後質疑があり、「同じ品質ということであるが関西と東北の味は同じか、薩長への出店はいつごろか」との質問に対し、「味は同じにしている、薩長への出店は10年後までに果たしたい」と答えられています。 


 
講演年月日 講演者 演題
2008年8月18日 第2回例会  石巻赤十字病院院長
 飯沼 一宇(かずいえ)氏
幕末の会津
 「タイトルは『幕末の会津』であるが、幕末から維新後を生きた会津人について話したい」と述べられ、祖父である白虎隊士飯沼貞吉を主体に著名な会津人である山川健次郎、柴五郎について約45分にわたり語られました。(要旨)
 飯沼貞吉については、家系、藩校日新館における教育指針・什(じゅう)の掟、白虎隊の組織、飯盛山における自刃と助けられ蘇生するまでの経緯、長州藩士の凱旋に伴われての長州滞在、その後逓信省に勤務し仙台で没するまでの生涯について、お身内ならではの情報を交え詳しく解説していただきました。飯盛山の参道店頭に展示されている貞吉翁の晩年の風格ある写真が一宇氏の育った仙台の自宅で撮影されたものであること、貞吉翁が記憶に基づき絵師に書かせたという(一宇氏の長兄宅に保存されている)飯盛山における自刃の図などもスライドで紹介いただきました。飯盛山での自刃の状況など初めて聞く事実も多く、参加者一同大いに心を打たれました。
 山川健次郎については、飯沼貞吉母方のいとこにあたり貞吉と同様白虎隊士であること、維新後選ばれてアメリカ・イエール大学に国費留学その後東京帝大物理学教授・理学博士、東京・京都・九州各帝大の総長を歴任された会津を代表する偉人であることなど、一宇氏はその功績を述べられました。
 柴五郎については、旧会津藩士が移住させられた斗南藩(となみはん、現青森県むつ市に藩庁を置く)で辛酸を嘗めた後陸軍幼年学校に進み、陸軍大将まで昇進した軍人で、清国駐在武官時代に発生した義和団の乱(清国の攘夷行為)の際に卓越したリーダーシップを発揮し、後日各国から勲章を授与されるなど国際的な功績があったことを紹介された後、中公新書「ある明治人の記録−柴五郎大将の遺書」に記された涙なくしては読むことのできない斗南藩時代の生活の様子の一部を読み上げ、読んでない方は是非一読されるよう勧められました。

お話中の飯沼氏 日新館 什の掟 を説明する飯沼氏 

 

講演年月日 講演者 演題
2008年5月8日 第1回例会  オンワード樫山 杉本大雄氏
 末広酒造椛纒\取締役社長
 新城 猪之吉氏
 クールビズガイダンス
 遠藤敬止を語る
 会場を提供していただいたオンワード樫山のメンズ・レディーメード販売課杉本大雄氏で、「クールビズ・ガイダンス」と題して省エネ時代のクールビズについて考え方とおしゃれな装いをポイントにお話しいただきました。夏に向かう季節のタイムリーな話題に会員から多くの質問が飛んでいました。

 研修会お二人目の講師には、遠藤敬止顕彰会会長新城猪之吉氏(末廣酒造第7代目社長)を会津若松市からお招きし、「遠藤敬止を語る」と題して遠藤敬止翁の会津と宮城との関わり、経歴、功績などについてお話しいただきました。顕彰会会長ならではの情報をもとに逸話も交え、ユーモアある語り口で熱弁をふるっていただき、会員一同深い感銘を受けました。新城猪之吉氏はこの日、遠藤敬止翁の墓所・仙台市新坂町充國寺に墓参されてから会場に来られたとのことで、みやぎ会津会には今後墓守をお願いしたいと話されております。

オンワード樫山杉本氏の「クールビズガイダンス」 ”遠藤敬止を語る” 遠藤敬止顕彰会会長・末廣酒造社長7代目新城猪之吉氏