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講演年月日 | 講 演 者 | 演 題 | |
2016年1月9日 | 第9回総会 | 若松城天守閣郷土博物館学芸員 湯田 祥子 氏 |
蒲生氏郷の生涯 |
2014年7月29日 | 第14回例会 | 幕末史を見直す会代表 鈴木 荘一 氏 |
勝ち組が消した開国の真実 |
2014年1月30日 | 第7回総会 | 東北運輸局長 長谷川 伸一 氏 |
東北の交通観光行政について |
2013年8月2日 | 第13回例会 | 会津若松市 石田 明夫 氏 |
伊達藩(仙台藩)から見た戊辰戦争 |
2013年1月28日 | 第6回総会 | 会津松平家第14代当主 松平 保久 氏 |
会津藩の歴史と京都 |
2012年1月23日 | 第5回総会 | 会津若松市長 室井 照平 氏 |
会津若松市のまちづくり |
2011年5月17日 | 第8回例会 | 福島民報常務取締役編集主幹 佐藤 春雄 氏 |
東日本大震災と福島の現状 |
2010年5月17日 | 第7回例会 | 前東奥日報社長 佐々木 高雄 氏 |
こちら側の志士・広沢安任 |
2010年1月25日 | 第3回総会 | 作家 星 亮一 氏 |
会津の人・心・歴史 |
2009年11月9日 | 第6回例会 | 東京農工大名誉教授 小原 嘉明 氏 |
利己的遺伝子と会津の心 |
2009年4月07日 | 第4回例会 | 会津天宝醸造椛纒\取締役会長 満田 政巨(みつたまさお) 氏 |
今伝えたい会津の心 |
2009年1月26日 | 第2回総会 | 会津若松市長 菅家 一郎 氏 |
会津の現状と展望 |
2008年11月10日 | 第3回例会 | 轄K楽苑代表取締役社長 新井田 傳 氏 |
会津藩の教えで世直しを |
2008年8月18日 | 第2回例会 | 石巻赤十字病院院長 飯沼 一宇(かずいえ)氏 |
幕末の会津 |
2008年5月8日 | 第1回例会 | オンワード樫山 杉本 大雄氏 末広酒造椛纒\取締役社長 新城 猪之吉 氏 |
クールビズガイダンス 遠藤敬止を語る |
講演年月日 | 講演者 | 演題 |
2016年1月9日 第9回総会 | 若松城天守閣郷土博物館学芸員 湯田 祥子 氏 |
蒲生氏郷の生涯 |
会津若松観光ビューロー・若松城天守閣郷土博物館学芸員の湯田祥子氏をお招きし、「蒲生氏郷の生涯」と題して、会津歴代の領主、蒲生氏郷の会津領主としての功績などをお話していただきました。 湯田祥子氏は会津のご出身で、昨年不j串間民報紙に「会津若松の礎築く蒲生氏郷の生涯」を連載されています。 |
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この会津の領主になるよう命じられ、その後近世以降の発展の基礎をつくっ たのが蒲生氏郷である。氏郷は、いまだ完全には掌握しきれていない東北地方 に、奥州仕置の一環で豊臣秀吉の代行者としてその権威を隅々までいきわたら せ、伊達政宗に代表されるような奥州や関東地域の不穏分子をけん制する役目 を与えられた。そしてそれだけではなく、自分よりも若く才能に溢れた氏郷を 危険視していたと思われる秀吉は、氏郷が自分の地位を脅かすことを畏れて遠 く会津に追いやったのだとも考えられるのである。 蒲生氏郷は、会津にとっては馴染みの深い武将だが全国的に見れば残念なが らそれほど際立った印象の無い感がある。それはおそらく当時の日本の政治経 済の中心だった京やその周辺地域から遠く離れた東北地方の領主だったことや、 40歳という若さでなくなってしまったことが影響しているだろう。その氏郷の 特徴として挙げられるのは、織田信長の娘婿であることや文武両道の武将だっ たこと、侘び茶を大成した千利休の高弟だったこと、キリシタン大名だったこ となどだろう。 はじめは織田信長の下に人質としてあずけられた氏郷だったが、信長はわず か12,3歳の氏郷の才能を見抜いて寵愛するようになり、ついには自分の娘であ る冬姫を嫁がせたのである。また、文武に秀でたことでも知られている氏郷だ が、氏郷のトレードマークである銀の鯰尾兜は戦場を駆け巡り、敵味方問わず その存在を知らしめたことだろう。しかし残念ながら氏郷の鯰尾兜は現存して いない。また、キリシタン大名としてのその存在感も見逃せない。氏郷は、当 時日本に布教に訪れていた宣教師たちには「日本で力のある大名の一人」とし て知られており、日本で布教するためには氏郷に協力してもらうのがより良い と考えられていたことだろう。 蒲生氏郷が会津領主となったのは天正十八年(1590)のこと。氏郷は奥州の 要の地にふさわしい城づくりと町づくりを始める。出来上がった城には、(諸説 あるが)氏郷の幼名・鶴千代からとって「鶴ヶ城」と名づけられた。今は幻と なった七層の天守閣を擁し、本丸・二ノ丸・三ノ丸を設けて城の周りには濠を 張り巡らせ、城は戦の状況を視野に入れたまさに戦国の城だった。また、城に は茶室も設けられた。この茶室は、氏郷が茶道の師である千利休が切腹させら れたことを受けて会津にかくまった利休の子・少庵が、氏郷のために造ったと いう伝来を持つ。少庵は千家茶道を子孫達に継承し、少庵の孫達の代になり表・ 裏・武者小路の三千家が興され、現在まで続く茶道文化隆盛の元となった。よ って、大げさに言えば氏郷がいなければ千家茶道の発展は見られなかったかも しれない。 一方、町の興隆のために氏郷は様々な産業を会津に根付かせた。現代まで続 く伝統産業の代表である漆器もそれである。厳密に言えばそれまでにも漆器は 会津で作られていたが、氏郷が技術者を会津に呼び寄せたことで本格的な産業 として発展していくことになったのだ。 このように様々な施策で近世以降の会津の発展の基礎を築いた蒲生氏郷は、 残念ながら40歳という若さで亡くなってしまう。 もし、あと数年でも長生きしていたら、その後の日本の歴史は変わったかも しれない…。そんなことを想像させる可能性を秘めた稀代の戦国武将が蒲生氏 郷だったのである。 |
講演年月日 | 講演者 | 演題 |
2015年7月29日 第14回例会 | 幕末史を見直す会代表 鈴木 荘一氏 |
勝ち組が消した開国の真実 |
講演は、幕末史を見直す会代表・東京在住の鈴木荘一氏をお招きし、「勝ち組が消した開国の真実」と題して行われました。 講演の要旨は以下のとおりです。
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講演年月日 | 講演者 | 演題 |
2014年1月30日 第7回総会 | 東北運輸局長 長谷川伸一氏 | 東北の交通観光行政について |
国土交通省現東北運輸局長 長谷川伸一氏は会津のご出身である。これを縁にみやぎ会津会総会での講演をお願いしたところ、快くお引き受けいただき、 「東北の交通観光行政について」と題し、交通・観光に係る東北地方の現状、課題等について熱弁を振るわれた。
<長谷川伸一東北運輸局長講演の要旨>
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講演年月日 | 講演者 | 演題 |
2013年8月2日 第13回例会 | 会津若松市 石田明夫氏 | 伊達藩(仙台藩)から見た戊辰戦争 |
お話の冒頭に石田氏は、NHK大河ドラマ「八重の桜」には史実と異なる箇所が2点あるとして、 一つ目は、武家の世界で、妹が兄を「あんつぁま」ということはない。「兄上」という。 二つ目は、八重は砲術師範の娘であるが、自宅で実弾を発射することはない。 と指摘されています。 一つ目については、みやぎ会津会会員も日頃から同じように感じて、「東北訛りと言葉づかいとは異なり、おかしい。弟の三郎は八重を「姉上」と言っているではないか。」と話し合っていたところであり、石田氏の指摘に納得したところです。 石田氏の「伊達藩(仙台藩)からみた戊辰戦争」の講演の要旨は、次のとおりです。
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講演年月日 | 講演者 | 演題 |
2013年1月28日 第6回総会 | 会津松平家第14代当主 松平保久氏 | 会津藩の歴史と京都 |
<松平保久氏講話の要旨>
会津会は全国にあり、会津人の思いを継承する上で意義深い。各会員の熱い思いが伝わってくる。みやぎ会津会の活動もホームページで見ているが、例会等を楽しくやっておられる。 昨年末、会津出身者の重鎮、(東京)会津会の会長を長く務められた川嶋廣守氏が亡くなられた。心から哀悼の意を捧げたい。 歴史は風化する。積極的に伝える思いが必要である。自分の国の歴史を伝えていく、会津は敗者の歴史であった。今年、全国的に会津の歴史が注目されている。 今年の大河ドラマ「八重の桜」は初めて幕末の歴史を会津の側から描いているのでとても興味深い。 2011年は、初代藩主保科正之公生誕400年であった。東日本大震災で正之公はクローズアップされた。明暦の大火、慶長16年の自然災害、会津大地震の対応に、際立った活躍をされている。3代将軍家光の異母弟である正之公は4代将軍家綱公の補佐役に任じられ、山形から会津に入っている。 公が制定した家訓15ヶ条は大きな意味を持っている。その精神は幕末まで受け継がれ、武士の基本的な精神のよりどころであった。折々父から言い聞かされていた。現在でも十分通用するものである。 明暦の大火の復興計画を迅速に行っている。危機管理はスピーディで大胆、時代が変わっているとして天守閣の再建は中止し、救済米、救済金を支給している。参勤交代の江戸詰の大名を国元に帰し江戸の人口を減らした。天地明察で描かれた改暦を推進、バックアップするなど業績は多岐にわたる。一方思慮深く、将軍の面目のため、自分の業績の記録は処分せよと言って亡くなっている。 そして2012年は、松平容保公が京都守護職就任150年周年であった。 さらに大河ドラマ「八重の桜」の放送がきっかけとなって、会津若松商工会議所と京都商工会議所の連携協定が実現している。 京都守護職は、所司代、奉行の上に位置し、京都の治安を担当した。それまでの北方蝦夷地警備、房総半島警備が評価されている。容保公は固辞したが、松平春嶽、徳川慶喜が強く要請、家訓15ヶ条を持ち出されて就任することになった。8月28日の政変における活躍で孝明天皇の信任を得、ご宸翰と和歌の下賜を受けている。これらは、会津松平家の家宝として保管している。 歴史は想定外に進む。その後会津は朝敵に。 京都に容保桜というのがある。京都市役所本館中庭に珍しい桜が残っていたが、この地はかつての京都守護職上屋敷跡地。昨年4月訪問し、大レセプションが行われた。大変うれしいことである。苗木を分けてもらい、御廟周辺と鶴ヶ城本丸に移植する予定である。 山本八重の兄覚馬は会津と京都をむすぶ絆である。聡明であり会津の誇りである。容保公と一緒に京都に赴任、鳥羽伏見の戦いに参戦し捕虜になった。その後京都市の顧問を務め、産業振興に貢献したほか、同志社大学創立に協力している。61才で死亡、京都に墓がある。 今回の大河ドラマは会津側からみた幕末であり、うれしいことである。 ”ならぬことはならぬ”は流行語大賞を受賞するかもしれない。私が思うに容保公の愚直とも言える生き様は価値観が多様化し混迷しているともいえる現在の日本でも意味があるのではないか。 会津の皆様とは今も親しくさせていただいている。曽祖父はいってみれば戦犯であるが、いつも温かく迎えて下さる。会津の方々のおかげである。 |
講演年月日 | 講演者 | 演題 |
2012年1月23日 第5回総会 | 会津若松市長 室井照平氏 | 会津若松市のまちづくり |
記念講演は、室井照平会津若松市長から、「会津若松市のまちづくり」と題してお話していただきました。 以下記念講演要旨
おばんでございます。ご紹介いただきました会津若松市長の室井昭平です。本日はみやぎ会津会の総会・懇親会にお招きいただき御礼申し上げます。私は昨年の8月に就任したばかりです。先輩の会津地方の首長さん方が大勢参加されている中ですが、会津は一つということで日ごろからわれわれは会津の発展を願いながら頑張っています。代表ということでお話をさせていただきたいと思います。 私も仙台にはご縁があり、昭和49年に東北大学に入りました。今日は家内も来ていますが縁があり会津まで娶ってしまいました。その後拓銀仙台支店にに2年ほど勤務、家で商売をやっていたものですから若松の家に戻り室井商店という商売をやっていました。 政治の道は平成11年から会津の街造りをしっかりやりたいという思いから市会議員を7年半やり、県会議員を半年間やり4年間浪人して昨年8月7日の市長選に立候補し当選しています。よろしくお願いいたします。 こういう時代の田舎の町です、行政だけではなく市民の方と一緒に街造りをしなければいけないということで、汗をかいて動くという造語を作りました。汗動ということでごろ合わせをし、汗動と共同による市民参加の街造りということを提唱させていただきました。4年間浪人していた甲斐がありました。地域経済が疲弊し、仙台は東北の中心地でいつもにぎわっていますが、会津の夜の町もさみしい状況が続いています。賑やかにしたい、一緒に街造りをしたい、街が駄目になったら市役所も駄目なってしまうというおもいで市制を担わせていただいています。 最初に暗い話をさせていただきます。通常であれば会津若松には大勢の観光客が来られます。会津で一番観光客が来られる鶴ヶ城、これを昨年赤瓦にリニューアルして今年こそと思って矢先の地震でした。通年ベースでは、工事中のお客様数ぐらいには戻るのですが一 時は5割、4割、3割という状況が続いておりました。実は民間の施設が非常に苦戦しておりまして、半分まで戻ったらいいのかなという状況です。さきほど 村井知事ともお話をしましたが、県外からの修学旅行については88%ダウンです。本当に厳しい状況です。市内を走っているバスも36%ダウンですし、観光農園も81%ダウンです。ただ旅館は現在33%ダウンまで戻しています。福島県の浜通り地方から避難されている方が沢山いらっしゃいます。会津に一時は1万人ほどおられました。いまは落ち着かれて民間に居られる方も含めて6千人は切ったのかなと思います。会津若松市には大熊町が役場機能と一緒に来ておられまして、そういう意味では人が増えておりまして経済的なプラスはあるのですが、皆さんへの対応も市民の方々苦労されたり、力を貸したりされています。会津美里町は楢葉町を受け入られており、坂下町は葛尾村また各方部の町村長さんも一時的に受け入れられております。幸いに会津には民宿とか小さな旅館がたくさんあったものですから一時は、仮設ができるまで町の中に受け入れておりました。そのような中でみやぎ会津会はじめ各方面からさまざまなご支援をいただきました。義捐金、物資をいただいておりあらためて御礼を申し上げます。本当にありがとうございました 。 8月以降真っ先にやらなければならなかったのが放射線対策です。線量は低いのです。現在会津若松では0.1まで、仙台市とさほど変わらない線量まで落ちましたが、ほとんど除染する場所はありませんが、市民の皆様に安心な状況を説明しなければいけない。お米をしっかり調べ、会津若松の全集落300検体を調べすべて問題ありませんでした。会津のお米は大丈夫です。 観光風評被害対策もやらなければなりません。会津は大丈夫だ安全だと訴えることが大事です。現在会津若松の人口は12万6千人弱です。会津圏内の人口は30万人弱です。会津若松の経済は周りの町村さんと一蓮托生でありまして、いま私は、農業も観光も物作り企業も全部連携して一緒に取り組みましょうということを申し上げています。特に農業の場合は、会津米を売り込み、観光も17市町村連携させていただいて取り組ことをお願いし ています。 会津には実は物作り企業が結構あるのです。金型、ロストワックス、オイルレスベアリングなどを作っている会社が会津地方に散在しています。会津若松市のある企業の従業員居住地は市内と市外が半々になっています。地域の物作り企業は、立地する市町村と周辺の市町村がともに支えています。会津産業ネットワークフォーラムという団体を創り、地域としていろんなものが作れるよという情報発信をさせていただこうと思っています。みやぎ会津会の皆様でご興味を持たれる方は是非一緒に手を組させていただき、会津の企業を使っていただきたいと思います。通称ァANFと言います。それで企業誘致をしたいと思っています。幸いなことに会津若松に立地していただきますと土地が三分の二出ます、建物三分の二出ます。設備投資も三分の二近く出ます。 かなりお安く、破格の誘致ができるようになっています。会津地方は線量も少ないですし、地震の影響も少なく、これから道路網も整備されてきます。そのような中で立地の検討を進めていただきたい、一緒に連携させていただきたいと思います。会津若松市役所からこのHメトロポリタンまで100kmと少し、2時間半あれば十分に来ることができます。非常に近うございますので、是非情報交換し、このようなものはできないか、あんなものはないかということを取り組まさせていただきたいと思います。ということで、地域の連携を進めていることをお話しさせていただきました。 この震災の関係かもしれませんが、NHKの大河ドラマで来年は会津出身の山本八重という会津藩士の娘さんのドラマをやっていただきます。この方は会津藩落城のとき城内におられました。お兄さんは山本覚馬いう方で、この縁で京都に行くことになるのですが、そこで新島譲と知り合い結婚します。やがて同志社を設立し、本人は従軍看護婦などをし88歳まで存命されました。この3月25日東京で会津会100周年の会合が開かれますが、郡さんという副会長が記念誌を探しているうちに、昭和6年5月の会津会に新島八重さんが出ておられることが分かりました。幕末、明治、大正、昭和の歴史の中を生きてこられた方であります 当時は会津出身者には本当に厳しい時代であり、そのような中で会津藩出身者が立ち直るという姿がおそらく、NHKさんには今回の震災から立ち直る姿にかぶせていただけるというような話であったと思います。我々も震災でダメージがありましたが、決してこれで終わることなく新たな一歩を踏み出しているわけであります。この「八重の桜」という大河ドラマ、観光的には大きな起爆剤なると思います。京都の市長さん。同志社さんとも連携させていただき、会津の観光振興を図っていきたいと思います。会津17市町村で取り組んできたのは「極上の会津」プロジェクトという会津観光です。ぜひ会津に来ていただきたいことをあらためてお願いします。 次に、会津でやっていること、やってきたことをお話しします。この本をご存知でしょうか。ミシュランのグリーンガイドといいまして、赤ラベルは食の三ツ星ですが、これは観光地の三ツ星です。すでに松島は入っております。会津地域各市町村さんには了解を得ていませんが、全会津でミシュラングリーンラベルの三ツ星を取得したいと思いますので、ご協力をいただきたいとここでお願いしたいと思います。 厳しい数値からいろいろ申しあげましたが、これまで何をやってきたかということをお話します。これはお米につけているシールです。会津の米は大丈夫です 、検出していませんというものです。自信をもって売りたいということで農産品にこういうシールを付けて出荷しまた。かきのときもやりました。土壌も検査しています。会津は問題ありません。沢水についても積極的に調べました。残念ながらゼロではありませんでしたが、非常に低い数値で一部2-300ベクレムがありましたが、ほとんど二桁台、そこで作った作物はほとんど吸い上げることはありません。ましてや玄米は精米するので完璧であります。会津の農産品は 大丈夫ということを訴えさせていただきます。 次に道路の話をさせていただきます。米沢から会津若松まで地域高規格道路という道路が平成27年に開通します。片側1車線ですが信号もないいわゆる地域高規格道路です。これが会津から南へは日光、宇都宮方面に行きますが、この道路も来年度平成24年度には着工になります。高規格道路南道路と申しまして、湯野上付近では大川の反対側に約250億円をかけて湯野上バイパスを作っていただき、縦軸がしっかり整備されてきます。国道121号は地震のときも物資輸送の大動脈になりました。いろいろな道路が使えませんでしたが、なぜか121号が完全に止まることはありませんでした。そのことが、縦軸が大切だと評価されたと思います。会津鉄道、野岩鉄道、東武鉄道の鉄道ルートも全く無傷で、3月11日は一時止まりましたが翌日から、新幹線、東北高 速道が不通の中運転され、東京から帰るのに浅草から帰ることができました。新潟までの磐越高速道も4車線化をお願いしようとしています。実は関西から東北への物資輸送は全て北陸道・磐越道を経由して運送されています。震災時、関西のトラックが、原発事故のせいでしょうか会津で荷物をおろし帰って行ったという笑えない話がありますが、大動脈として大活躍しています。縦軸と横軸をしっかり整備していくことが、これからの国土軸支えることだろうと思います。中心が会津になります。会津の地勢的なものは変わっています。 このことを意識してこれからの会津の地域作りに努めていかなければならないと思 います。 就任直後に中国に行ってきました。湖南省の長沙という人口700万人の都市に重機メーカーで従業員3万人のズームライオンという会社があります。この会社 と(会津の)地元の会社が提携し、4月には販売、修理の合弁会社をつくり日本で事業展開したいという話が進んだのです。できれば日本で組み立てもしてほしいと思います。メインの機械は生コンの圧送車です。年間3千台販売し、昨年は5千台といっていました。中国も前の勢いはありませんし、販路を拡げるためにメードインジャパンを狙っています。これはキーワードと思います。中国の賃金はどんどん上がっておりまして、5年間で3倍から5倍、今後も3倍から5倍になるだろうということで、中国で物作りをするアドバンテージは疑問であるという方もいらっしゃいますので、会津に目を向けていただいたのはこれから流れが変わる兆しとも思います。新潟には中国の6番目の総領事ができます。しっかり情報交換させていただき、向こうの投資もいただきたいし、いろいろなものも売りたいと交渉させていただいております。会津若松ではなく会津全体のブランド品を中国に売りたいなと思います。いなかの都市とはいえ、グローバ ルな視点を持ち、生き残りをかけがんばっていくのが我々の課せられた課題と思います。 新任であり、十分なお話はできませんでしたが、我々は会津スクラムを組んで頑張ります。みやぎ会津会の皆様にも昨年同様ご支援、ご協力をお願いい たし、ご挨拶とさせていただきます。 |
講演年月日 | 講演者 | 演題 |
2011年6月6日 第8回例会 | 福島民報常務取締役 編集主幹 佐藤春雄氏 |
東日本大震災と福島の現状 |
福島民報社常務取締役編集主幹 佐藤春雄氏 のお話を伺いました。講演の要旨は以下のとおりです。 2017年12月15日改稿) 「東日本大震災と福島の現状」と題して、福島民報社常務編集主幹・佐藤晴雄氏のお話を伺いました。講演の要旨は以下の通りです。 弊社では富岡支局、小名浜支局の建物に被害があったが、人的な被害はなかった。同じ福島県内の地方紙である福島民友新聞社では原町支社の記者1人が津波に巻き込まれて死亡した。報道関係者は、どうしても少しで現場に近づいて取材しようとする習性があって、津波が来そうだと聞くと海岸近くで取材しようとしてしまう。私も浪江支局にいたことがある。そのときに大地震に遭遇したら、海の近くまで出かけて津波にやられていたかもしれない。 大地震の後、東京電力福島第一原発の事故で爆発するシーンがテレビで放送された。住民は着の身着のままで避難した。道路が混雑して、ふだんなら50分で着くところまで5時間もかかったという。途中で車のガソリンがなくなると徒歩での避難になったが、とても寒くて住民の避難は大変だった。 マスコミ関係も、原発事故があった場合には「原発から◯◯キロ以上離れて避難する」などのルールがある会社もあって、社命で避難した記者がいた。いわき市では福島民報社一社の記者しか残っていないこともあった。他社の記者が避難したのに弊社だけ記者を残しておくのもどうかと考え、いったんいわき市から離れるように指示を出した。すると、いわき市内では「ついに福島民報も逃げた」「何らかの情報をつかんだので、逃げたのではないか」と話題になった。そこで、いわき市から離れた記者を、いわき市に戻したこともあった。 他のマスコミ関係では、社命で山形県に一時避難したあと、福島県内に戻ったが、放射線を恐れて屋外に出られず会社を辞めた例が週刊誌で報じられた。また、別の社では、東京でも放射線が危険だとして会社を辞めて、子どもと一緒に関西に避難したという記者もいたようだ。 医療関係でも福島県内の医療機関を辞めた医師が大勢いた。福島県立医科大学では合格者110人のうち11人が放射線を恐れて入学を辞退した。浜通りだけでなく中通りの高校生も山形県内の高校に転校したケースがあった。こうした例を踏まえて、県外の人たちは「原発から離れた福島県内の人たちも県外に避難しているのだから、福島は危険だ」と認識する事態になっている。 原発から60キロ以上離れた福島市では飛来した放射性物質が、側溝などで比較的高いレベルの濃度で測定された。郡山市の小中学校では、校庭で児童生徒を遊ばせなかった。校庭の表土に放射性物質が付着しているからだ。校庭の表土を削って運ぼうとしたら、運ぶ先の住民からは表土を持ち込まないように言われている。学校のプールも周辺の農家からクレームがあって、プールの水を流せないでいる。これから暑いシーズンに入るのに、教室の窓も開けられない状況にある。 日本には原子力発電所が数多くあるが、県名を使用している原発は福島と島根だけである。今回のような原発事故があると、あたかも福島県全体が放射能で汚染されたイメージでとらえられる。原発が立地した地方の名前、例えば「双葉原発」とネーミングしていたら、違った展開になっていたかもしれない。 福島第一原発から約100キロ離れた仙台市の放射線量が毎時0.11マイクロシーベルト、ほぼ同じ距離にある会津若松市は0.17マイクロシーベルトと、ほとんど差がない。しかし、会津若松市への修学旅行を中止する宮城県の小学校が多い。このような中、名取市立ゆりが丘小学校では6年生118人が会津を訪れた。校長は事前に視察して安全を確認したうえで保護者を説得し、修学旅行を実施した。子どもたちに風評被害とはどんなことかを学んでもらいたかったという。 こうした中で、最近では風評被害に苦しんでいる会津若松市が、観光庁の国際観光戦略拠点に選ばれる見通しになったという明るいニュースもある。ただ、蔵の街、ラーメンの街で全国的に有名な喜多方市では団体客が途絶えたという。同市では、農業体験や農家民泊などを通したグリーン・ツーリズムでも昨年は、小学校で15校の参加があったが、今年は1校のみだという。 中通りでも飯坂温泉から土湯温泉近くまでのフルーツライン沿いにある観光果樹農園では、昨年は8000人の予約があったのに今年は300人に届いていない。福島名産のサクランボ、モモ、ナシ、リンゴなどは厳しい状況にある。私も東京にいる友人に毎年リンゴを送っているが、放射能汚染を恐れる、その友人から「今年は福島のリンゴは送らないで、いいから」と早くも言われている。福島県産の農産物への影響が心配される。 今回の震災で製造業への打撃も大きい。建物、機械、設備が壊れて操業を停止したほか、今後の操業が困難になったところもある。工業製品の輸出では、放射線検査済み証明書を添付しなければならないケースもある。県内への新たな企業進出がなくなる心配があるが、県当局は「既存企業の県外流出防止に重点を置いている」という。 福島第一原発事故の発生で、重大性についての事態説明の曖昧さが浮き彫りになった。「風評=物事の重大性×曖昧さ÷受け手の認識力」と言われる。今回は政府の発表の後出し、「直ちに影響はない」という曖昧な言葉などで風評被害を大きくしているのではないか。風評被害をなくためには、正しい情報を正しく出す必要がある。 福島県に対する見方は当初、「かわいそう」であったが、一部で空気の流れが変わった。一つは、東京電力社長に対して「土下座しろ」と地元住民が怒鳴ったことだ。地元住民からすれば、このような気持ちは理解できるが、県外の人からは「やりすぎではないか」という声もかなり出たようだ。もう一つは天皇陛下の前であぐらをかいて、お会いした人がいた。足が不自由で正座できなかったのかもしれないが、テレビはその場面だけ繰り返し放送したため、福島県のイメージを下げてしまったのかもしれない。 今は福島第一原発事故の一刻も早い収束が大事だ。県民も、へこたれないで頑張ることが大事だ。そうすれば、風評被害も低減できる。 |
講演年月日 | 講演者 | 演題 |
2010年5月17日 第7回例会 | 前東奥日報社長 佐々木高雄氏 | こちら側の志士・広沢安任 |
佐々木氏は北京でお生まれになり、戦後旧満州から青森に引揚げてこられたとのこと。東奥日報に入社され三沢勤務のとき広沢安任のことを知り、「志」の何たるかを教えてくれ、歴史の本当の中身を教えてくれたのは「広沢安任」であったと述懐されています。 お話は具体的で 躍動感に満ち、歴史に残る会津出身偉人の人物像が見事に語られています。 以下に要旨を記します。
会社をリタイアして5年たちました。青森郊外に住んでいてほとんど外に出ていません。会話がなくなると声帯が緩み、声がかすれていましたが、ここに来るというので1週前から訓練しやっと声が出るようになりました。お聞きにくいと思います。お許しください。 斗南藩もそうですが意外と知られていないのが広沢安任という人物です。テレビで坂本龍馬を盛んにやっています。司馬遼太郎(の著書)もそうですけれど、志士と呼ばれる人間は全部西側の人間なのです。東軍の人間に志士と呼ばれる人間などいるわけがないという不届きな作家もおりますけれど、私はある意味で坂本竜馬や高杉晋作などむこうの人間以上に日本のことを考えた志士がちゃんと会津藩にもいた、その一人が広沢安任だと思っています。そういうことでお話したいと思っています。 70歳半ばを過ぎてぼけが始まるのではないかと危機感を覚えており、年表なども準備してきました。できるだけ正確な話をしたいと思っています。 広沢安任は天保元年(1830)に生まれました。会津藩の最下級の武士の出身です。2軒長屋で玄関にドアがついてない、筵がぶら下がっているような家に育ちました。幼い頃から兄たちと一緒に春は山菜、秋はきのこを採って家計の足しにしています。非常に頭が良くて勉強好きで、中級以上の武士が中心だった日新館に下級の武士から抜擢されて入っています。そこでめきめき頭角を現し、26歳になった頃藩から抜擢され江戸の昌平黌に入学します。(いまでいえば)東京大学に入るのです。そのころの昌平黌の学長は学問所創立の林羅山に連なる学頭林子平です。この人に目をかけられ、しかも成績優秀なものですから、二つあった寮のうち、西国の藩の寮長は長州藩の子弟、東国の藩の寮長は広沢安任が勤め、第一等の成績を修めて卒業します。 ちょうどペリーが来ていました。会津藩は沿岸警備を申し付けられ、木更津に駐屯します。彼も木更津で警備隊員として勤め、ペリーの艦隊を眺めることになります。彼が外国に触れる最初のことと思います。彼は自身の知識の足らなさを身をもって感じ、水戸の藤田東湖のところに弟子入りします。そこでヨーロッパのいろいろな知識を仕入れます。 幕府からも注目されていました。その頃日本を窺っている外国がたくさんありました。ひとつはロシアです。ロシアの使節団が函館に来て国境談判を始め、千島列島をよこせ、樺太をよこせといい始めました。幕府の国境談判の使節団は糟谷筑後守で、昌平黌を修了しただけでまだ無名の広沢安任が随員として抜擢されました。函館にはおよそ1年以上いました。談判の席に列席したり、暇なときには十勝地方まで歩いています。そのとき案内したのが蝦夷地探検家松浦武四郎です。松浦武四郎は後に北海道開拓使の判官になり、北海道という名前を作った人間です。この人間と一緒に松前藩とかアイヌとかを調べて歩くわけです。 その最中の文久2年(1862)8月1日、松平容保公が京都守護職に任命されます。北海道に急使が来てすぐに帰れと命ぜられ、便船に乗って到着した品川から東海道を上京中の容保公を追いかけ三島で合流します。そこで「公用方に任ずる」といわれます。外交官兼秘書官のようなもので、容保公が守護職就任と同時に作った職制です。上級の侍は公用人、下級の侍は公用方といわれました。20人前後いたものと思います。容保公から秋月悌二郎とともに井伊直弼亡き後の彦根藩の動向を探れと命ぜられ先行します。探索の報告を受け、容保公は文久2年12月京都入りします。 その頃京都では、自称勤皇の志士と称する不良侍たちが商人を狙っていました。そのような巷に入り、黒谷の金戒光明寺に本陣を張ります。彼(の任務)は007のようなもので、薩摩、長州の京都詰めの侍と仲良くなり、情報交換をやります。久坂玄瑞という長州の暴れん坊とも仲良くなり、あるとき道で会い、「関白にところに行っているか、行ってみろ」と紹介されたりしている。 長州が騒動を起こして薩摩と会津が鎮圧した七卿落ちという事件がありますが、七卿の一人である東久世道禧が維新前夜という記録に面白いことを書いています。広沢安任に追われた公家さんの記述です。「会津に広沢富次郎(安任)という人間あり。有為の人物なり。その頃(の会津藩を取り仕切っていたの)は手代木直右衛門、秋月悌二郎なる人物なれどもこの二人は凡庸の人物にして秋月は学問あれど迂遠なり、手代木は無学にして少々俗才あり、広沢にあっては学識あって役に立つ男なり。大和行幸の勅命出るや秋月、手代木は大いに驚くのみ、なんともなすところを知らず。広沢はこれを聞きて我に一策あり、この局面を変じて見すべしという。」としてみごと大和行幸の長州の陰謀をつぶすのです。これだけ敵方からもほめられている人間なのです。 姉小路公知という公家が田中雄平という薩摩の脱藩者に暗殺されます。田中雄平の潜んでいるところが分かり、広沢安任は京都守護職、京都所司代とともに逮捕に向かった。抵抗するものは切り捨てるということになっていましたが、広沢は自分に策ありとして一人で入っていく。田中は薩摩示現流の使い手です。「私は天皇の勅命で逮捕にきた。抵抗すれば直ちに切る。おとなしくいうことを聞けば侍なので縄をかけない。」その気迫に押され、田中は刀を差し出し連行されるのです。所司代で尋問が始まろうとしたときについて、「幕末会津志士伝」という本にすごいことが書いてある。「雄平やにわに傍らの大刀をつかみ、腹を二度刺す。二度ともその切先の背中に出ずるを見たり」と。その場にいた人間でなければそこまで書けません。 元治元年(1864)佐久間象山が殺し屋に暗殺されます。そのころ広沢安任は象山と一緒になって、こんな危険な京の都に天皇を置いておくわけにはいかない、彦根に遷都しようという計画をたてていた。それを薩長の連中が聞きつけ、白馬に乗り黒い西洋マントを着て家に帰る途中の象山を襲う。象山は馬の首にしがみついて玄関にたどりつき式台に倒れこむ。そこに象山と会談のため広沢安任が来合わせた。奥から象山の奥さんが出てきます。奥さんは勝海舟の妹です。広沢安任は、「遺体を式台から奥の部屋に隠せ、式台の血を全部拭け、象山の藩には病気で亡くなったと届けよ(なぜかというとお家断絶になるからです、恥辱ですから)」と全部始末し、象山の家名を残すのです。 文久3年(1863)から元治元年(1864)にかけ、薩英戦争で薩摩は英国に、馬関戦争で長州は英仏蘭米の4カ国に敗れます。自分たちの武器がいかに劣っているかということを身にしみて分かり、負けた英国から頭をさげて武器を買います。英国はアヘン戦争における清国と同様に、日本を席巻しようとする下心がありました。日本は長崎のほかに函館と横浜の3港を開港していましたが、更に京都に近い神戸を開けと要求し、フランスの軍艦などと共にデモを行った。これに対し在京47藩の留守居役により開港の可否に関する協議が行われました。薩摩の大久保一蔵も入っています。ほとんどが開港拒否という中で、広沢安任は、「西国であれほどの戦いをやって英国に負けた。いかにヨーロッパの文明が進んだものであるか、この文明を取り入れていかなければこれからの日本は生きていけない。」といって神戸開港の方向に逆転させてしまいます。それを知った岡山藩の花房義質という男が思わず激高して切りかかろうとし、それを止めたのが芸洲藩の同僚かあるいは大久保利通ではなかったかといわれています。 この花房という男は明治になってから浅草などで広沢に似た人物が来るとわざとぶつかってけんかを売るほど広沢を憎んでいました。明治24年2月1日インフルエンザで広沢安任が62歳で死にます。その頃広沢安任は新宿角筈いまの伊勢丹デパートのあたりに100間×100間の牧場を開き、乳牛を育て牛乳やバターなどを作っていました。バターは日本郵船に納めていました。夏目漱石の先祖もあのあたりに牧場を作っていました。新宿御苑が農商務省の用地で近所だったのです。2月5日に葬式を出しましたが香典帳を見たら4日間に亘り毎晩花房が香典50銭を出している。あの憎き広沢の通夜に出ているのです。当時の人間たちを敵と味方という単純な区別をするわけにはいかないようです。 葬儀では新宿角筈から青山の斎場まで行列が出ました。先頭が白馬に乗った明治天皇の供物、供花です。賊軍ですよ。恐らく会津藩士で明治天皇から供物・供花をいただいたのはそうないと思います。行列の先頭は榎本武揚、次いで牧野伸顕(大久保利通の次男)、渋沢栄一らでした。三沢の広沢牧場に墓がある。神道ですので火葬にしていません。その墓碑銘が土佐の谷干城です。みんな敵味方仲良かった証拠と思います。三沢で小さなささやかな葬式をやるのですがその見取り図が残っています。一角に乃木と書いてあります。乃木希典の弟です。千葉の御料牧場にいたが、兄とは似ても似つかぬ道楽男で乃木希典も手に負えなく、京都時代の薩長の士人との付き合いで知り合った縁で、三沢で牧夫として使ってくれといって広沢に預けた。彼はここで心を入れ替え、忠実な牧夫であったといいます。 京都守護職詰めのとき忙しい身でありながら金戒光明寺の中に日新館の分校(学習院)を作ります。そこでヨーロッパの文明の知識を得させようとし、上級武士の子弟たちを何人かを勉強させるのです。その中から抜擢してヨーロッパ当時の英国とかプロシアとかに留学させる。その一人が山川浩です。 戊辰戦争のとき広沢は、やっとの思いで京都から大阪にたどり着き、徳川慶喜と松平容保公が江戸に逃げ帰ったあと残った藩士を引率して和歌山に逃げます。ありったけの金で磯舟を集めさせ、傷ついた1800人を乗せ紀伊半島を回って津にたどりつく。津から親藩の桑名を経由し江戸に向かう。江戸に帰ってからは休むまもなく殿様の助命嘆願運動を始める。殿様は会津に帰るから残ってやるようにといわれ、南砂町に住み同士11名とともに助命嘆願運動をやる。尋常でいくわけがありません。そのうち江戸に西郷が入ってきます。明治元年閏7月、薩摩の益満休之助(ますみつきゅうのすけ)を使って江戸城に入り西郷に会おうとする。出てきたのは参謀の西郷の片腕とされた旧知の海江田信義(かいえだのぶよし)。「やはり生きていたか」、「助命嘆願書を持ってきた」、「少し待て」といって奥に引っ込む。官軍はいろいろな藩の集合体です。そこで広沢を知らない藩が「会賊」がいたといって捕まり、それまで執務していた会津藩上屋敷に収容される。さらに伝馬町に移される。伝馬町では首切り朝衛門がばっさばっさと首を切っていた。牢屋の中は惨憺たる状態であった。これを聞きつけたのは英国大使館のアーネスト・サトー一等書記官です。彼は、日本の侍は意地汚くて好色で酒飲みで、どうにもならないやつが多すぎるという批判を書いています。アーネスト・サトーの護衛役をやったのが野口富蔵という会津藩士であった。その縁があってあるとき江戸でアーネスト・サトーと広沢が会って話をしています。アーネスト・サトーは、「この男は会津藩士で、かなり腰をすえて日本の現状について話した」と書いています。広沢という人間の人となりを見破っていました。それで広沢が捕まり伝馬町にいることを知って、木戸孝允に「維新の大儀とは何か、これからの日本にとって有為な人間を殺すとは何事だ」といって彼を助ける。囚われていたため彼は鶴ヶ城の戦争には加われなかった。武士としての死に場所を選べなかったわけです。 獄舎から解放され会津に戻ったとき、会津は28万石から3万石に落とされ、猪苗代の北か下北半島かどちらかを選べといわれていました。猪苗代の北の炭焼きをやるしかないような土地では、とても1万7千人が食べ暮らせるわけがありません。そのとき広沢は土地があるのだから下北に行こうと皆を説得し、反対を押し切って下北に行くのです。そのうちの一部は陸軍省が屯田兵のつもりで北海道に連れていった。長万部とか瀬棚に押し込められ惨憺たる目にあいます。また樺太まで行かされようともしています。 明治9年7月の天皇行幸で天皇がまだ三沢にいるとき、大久保利通は先行して野辺地に泊まります。朝5時に起き、県の知事を連れ馬で自分から三沢の牧場まで広沢に会いに行く。相手は賊軍である。広沢は牧場の入り口で、野良着で腰に大きな鎌をぶら下げて待つ。一晩泊まりで話し込みます。酸っぱくなったドブロク、固くなった身欠きにしん、古くなった豆漬、それしかなかったそうです。それを大久保に食わせました。大久保は、「農商務卿をやってくれないか」というが、広沢は「野に尽くす」と言って断ります。 明治14年には松方正義大蔵卿が来て1週間泊まった。彼もまた農商務卿をやってくれないかと頼む。これも断ります。 そのあと谷干城農商務卿が北海道開拓使長官をやってくれないかと要請するがこれも断る。 彼には別の希望があった。彼は探検家になりたかった。明治18年畜産協会を作ってそこの理事長のとき東京で渋沢栄一日銀総裁に会い、「1800円を貸せ」「何に使う」「南洋探検をやりたい。」「未だ時期が早い、もうすこし待て。」といわれる。彼の望みは実現しなかったが3代目の春彦という人間がスマトラ島に木材の輸入会社を作る。2代目の弁二(べんじ)はやはり畜産協会に入り、アメリカに行って種馬25頭、牛や豚・鶏を輸入している。今の日本畜産業の基礎を作り競馬の振興に尽くし東京獣医学校長に就任したのは2代目の弁二でした。 たしかにつらい、つらい思いをしている。斗南藩というのは3万石といいますが、実質は7千5百石しかなかった。どうして暮らせますか。だから鳩侍とかいろいろなことを言われ、刀をつぶして鍬を作ったほどの苦労をしました。 まだまだいろいろな話があります。 いろいろな会津藩関係の本がありますが、非常に珍しい本を見つけました。熊田葦城著「幕府瓦解史」という本で、大正4年に刊行されています。報知新聞の記者が連載したものをまとめたものです。ここに「凡そ著書は勝者に厚くして敗者に薄きの感なきにあらず。」と書かれ、この本「幕府瓦解史」は逆である、つまり敗者に厚くしていると言っています。このあとがきを最後に紹介したいと思います。 久しきものは倦み、倦むものは衰ふ、是れ勢いなり。 勝つものは驕り、驕るものは亡ぶ、亦た是れ勢いなり。 幕府の倦みて、驕るや久し、その前途唯衰亡あるのみ。 幕府衰亡の勢既に成る、故に之を倒すは易く、之を支ふるは難し。 薩長は其易きを為さんとす、故に労少なくして能く功を成す。 会桑は其難きものを為さんとす、故に労多くして、却て罪を招く。 然らば即ち薩長は智にして、会桑は愚なるか。 否な、何ぞ然らん、唯其境遇、位置の之をして然らしめたるのみ。 会桑をして薩長の位置に立たしむれば、亦た能く薩長の功を成さん。 薩長をして会桑の境遇に在らしむれば、亦た終に会桑の罪を招かん。 勝つもの以て誇るに足らず、敗るるもの以て悲しむに足らざるなり。 夫れ六国亡びて二十年、秦も亦た亡ぶ。 今や薩長権を執ること実に四十年、豈に勝ちて驕り、驕りて亡ぶるの勢いなきか。 嗚呼驕るもの久しからず、和漢皆然り。 つまり勝った人間だけの世なのかということなのです。負けた人間ほどちゃんと国を考えていたということをこの新聞記者は書いています。 今数ある本はすべて薩摩や長州のいいことばかり書いています。この本の識語を紹介して広沢安任の話をしめくらせていただきます。 ありがとうございました。 |
講演年月日 | 講演者 | 演題 |
2010年1月25日 第3回総会 | 作家 星亮一氏 | 会津の人・心・歴史 |
(講演要旨)
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講演年月日 | 講演者 | 演題 |
2009年11月9日 第6回例会 | 東京農工業大名誉教授 小原嘉明氏 | 利己的遺伝子と会津の心 |
(1)動物の「生」の目的と利己的動物観・利他的動物観について 動物が生を営む目的は、従来は利他的動物観すなわち自己の利益より集団の利益を優先し、集団の繁栄に寄与することと考えられていた。しかしこの考え方は、自己を犠牲にする個体は自己の子孫を残す確率が低いという理論的弱点と、多くの実証的研究によって否定された。 これに代わって現在は、利己的動物観すなわち集団の利益より自己の利益を優先するという考え方が定説となっている。つまり、動物の「生」の営みの目的は、究極的には自己の繁殖成績の最大化(次代に遺す自分の子の数の最大化、または自己の遺伝子の複製の最大化)である。 その後ある種の動物において、他者に自分の餌を分け与えるという、利他的行動とも受け取られる行動が観察されたが、詳しい研究により、この利他者は餌の取得に失敗したときに、以前に餌を分け与えた個体からお返しの餌分配を受けることが明らかになった。つまり、相互に餌を分配し合うこの行動は時間差を伴った互恵的利他行動であり、それによってお互いの生存率が著しく向上することが判明し、この行動は自己の生存率を高めるひとつの生存戦略で、基本的に利己的動物観に反しないことが分かった。 この他者を信じて施しを行い、自らは裏切ること忌避する性質は、会津に生まれ、会津に根付いてきた「会津の心」に通じるものとみなすことができる。 ただしこの互恵的利他行動の弱点は、時間差を伴う協力行動であるがゆえに、最初の受益者による裏切りの危険が大きいことである。しかし「囚人のジレンマ」モデル等の研究により、「会津の心」をもって他者に対応する個体が、同じ心を有する個体と「内輪づきあい」をすることなどによって、利己的に自己の利益のみを追求する個体を凌駕して繁栄し得ることが明らかにされた。 (2)利己的遺伝子の世界観:生命は半永久的 前述の、動物は基本的に利己的に振舞うという認識は、現在では一般的になっている。この認識に立ちはだかる唯一の観察事実は、人間も含め、動物一般に認められている、親の子に対する無償の奉仕や、兄弟姉妹などの血縁者間の自己犠牲的、利他的奉仕である。しかしこれについても、動物の血縁者はある確率(例えば兄弟姉妹間は0.5の確率)で遺伝子を共有することを指摘した研究よって、利己的動物観に反しないことが明らかになった。すなわち血縁者の利他的行動は、ある確率で遺伝子を共有する血縁者というと特殊な個体の中に宿る自己の遺伝子の生存と繁殖を支援することであり、それは即ち利己的行動であることが判明したからである。 またこれらの研究は、動物本体と遺伝子の立場を逆転させ、従来の生物観を一変させた。それは生物の本体は自己複製子(自己複製をし続ける物質系)であること、すなわちそれは遺伝子であり、我々が目にする形を持った生物は、生物の実体ではなく、遺伝子を次代に送る「遺伝子の乗り物」あるいは「遺伝子の仮宿」であることを暴き出した。「利己的遺伝子」と俗称されるこの生物観は、生物観を一変させただけでなく、生物(遺伝子)は半永久的に生き続けている、というあがない難い事実を明らかにし、それによって人間の死生観にも重大な影響を与え始めようとしている。「利己的遺伝子」説はおそらく、そう遠くない時期に21世紀最大の科学的発見のひとつとして評価されるだろう。 |
講演年月日 | 講演者 | 演題 |
2009年4月07日 第4回例会 | 会津天宝醸造 代表取締役会長 満田政巨(みつたまさお)氏 |
今伝えたい会津の心 |
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その後、「今伝えたい会津の文化」と題し次のように語られました。(要旨) まず会津の食の文化について。 会津の地は農作物に適している。盆地であるので’やませ’がなく’冷夏’にならず温暖である、そして山に囲まれ水が豊富である。そのため米を主体とする農作物のほか果物も豊富である。しかし米の消費は減っている。食事は終戦後、パン、肉、ハンバーガーなどの洋食系に変換が進み、かつて一人当たり年間120kg消費した米は現在60kgに減っている。減反が進められ農家は困っている。 そのような中で農村のお役に立ちたいと考えている。豆、雑穀から味噌を作り北海道から沖縄まで販路を開拓、50億円を売り上げるようになった。味噌の用途は味噌汁だけでなく工夫を凝らし、おかず味噌として「肉味噌」、「ねぎ味噌」、「にんにく味噌」などの新商品を開発、売り上げを伸ばしている。そして農家の方が豊作貧乏にならないよう契約栽培を行い、不況の中でも成長を続け、信頼感でつながるようになった。 山都・猪苗代のソバ、喜多方ラーメン、おいしい米、豊富な果物など会津は本当に良い土地であるが、国全体の食料自給率は40%未満、農村は高齢化が進んでいる。一方、都会と地方の格差が拡がる中、この不況で会津に工場を置く大企業も苦境に見舞われており、会津若松市も大変である。これを機会に、金の卵といわれた若年労働者を食糧危機に備え農村に戻し、農民が安心して生産できるよう農商工の連携を図っていくことが大切である。生産したものを売ることが大切で道の駅での販売拡大など更に仕組みつくりに知恵を出し、農と消(費)の間のブリッジ役を果たしていきたい。 次に会津能楽堂について。 前に述べたように地域の格差が拡がり、会津も人員整理で大変である。このような中観光に活路を見出していかなければならない。会津は観光資源が豊富、年間600万人は招くことができる。大内宿には150万人が来て混雑している。仏都会津としても有名であるが、ダム、風力発電、地熱発電も見てもらいたい。 今回完成する会津能楽堂は、演能のほか東山芸妓の舞、彼岸獅子大会、念仏踊りなど間を置かず小さなイベントを上演し、外国の観光客も招くなど会津観光の目玉になるべく活性化に努めていく。 |
講演年月日 | 講演者 | 演題 |
2009年1月26日 第2回総会 | 会津若松市長 菅家 一郎氏 | 会津の現状と展望 |
特別講演会で菅家市長は、会津の現状と展望」について次のように語られました。(要旨) 昨年の会津を振り返ると、戊辰140周年の節目の年にあたり、野口英世アフリカ賞第1回授賞式が行われたほか、ふるさと納税制度を活用する鶴ヶ城復元計画を公表した年であった。 会津圏の人口は平成10年の33万人が平成20年には30万に減少しているが所帯数は微増しており、核家族化が進んでいる。人口減少は会津若松市を含めた全市町村の現象である。 市町村の合併が進み、平成16年の28市町村が現在17市町村になっている。
観光客の入り込み数は、会津圏全体の統計がないので会津若松市のみの統計であるが、ピーク時平成4年の380万人が平成11年には270万人に落ち込んでいた。これが平成16年から上昇に転じ平成19年には350万人まで回復している。これはJRグループと地元がタイアップし平成17年7月から9月にかけて展開した大型観光キャンペーン‘あいづデスティネーションキャンペーン’が起爆材となったものである。このキャンペーンは当時の会津21市町村が連携して推進したもので、道県以上の単位での開催が基本であるこのキャンペーンを県内の1地域で開催したのは初めてであった。(編集者注:京都市を除く) |
講演年月日 | 講演者 | 演題 |
2008年11月10日 第3回例会 | 轄K楽苑代表取締役社長 新井田 傳氏 |
会津藩の教えで世直しを |
外食産業界は、ファミリーレストラン、ハンバーガー、居酒屋・回転すし・牛丼など大手チェーン店の寡占状態で成熟しており、伸ばすべき業界売上高は残っていない。ハンバーガーではマグドナルドが68lのシェアを獲得している。一方らーめん業界は個人店が83lを占め大手というものがなく、チェーン店が業績を伸ばす可能性を大きく秘めている。日本のらーめん市場規模は7,000億円で、このうち50lのシェアを獲得できれば3,500億円の売りあげになる有望な市場である。 現在の当社の400店舗を2年後には500店舗、10年以内には1,000店舗とし、らーめんのマグドナルド版を完成させたい。そのときには北海道から九州までの店舗展開となる。現在の3工場の生産能力は1,000店舗に対応できるようになっている。 そのためには、マグドナルドが世界のどの店に行っても @価格が安い、A品質が安定してる、Bサービスが良い、C清潔である、というの4つの条件を満足させてシェアを確保しているように当社もこの4つの条件を遵守して店舗を展開していく。この条件を1,000店舗においてマネジメントできれば海外出店は可能になる。韓国人はインスタントらーめんが大好きである。中国では日本のらーめんは「日式らーめん」と呼ばれブームになっている。アメリカはカップヌードルの消費量が多く、パリではラーメンの繁盛店がある。しかし価格は高く、店は汚い。ここにチャンスがある。世界中に幸楽苑の看板を掲げたい。
現在社長業の80lを社員採用、教育の業務に投入している。毎年100人の大卒を採用しているが、会社の発展は教育のいかんに懸かっており、純粋・純真な人材を教育するのが一番である。鉄は熱いうちに打たなければならない。当社ではこの結果人材の蓄積が進み、当社の離職率は23lで、一般会社平均の38l、外食産業の51lを大きく下回っている。学校では十分な教育ができていない。分からないのではない。教えられていないのである。教育は企業で、会社で学ばせなければならない。 明治8年生まれの祖母に、会津は賊軍ではない、天皇をお守りしたのだ、薩長を許してはならないと常に言われて育った。この会津人の誇りが私の信念に結びついている。らーめんのマグドナルドを目指す1,000店舗展開の中で、薩長の中心地に幸楽苑の看板を立ててみせる。会津人の意地を見せ、繁盛させて地元の人々に素晴らしいらーめん屋であると言わせたい。
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講演年月日 | 講演者 | 演題 |
2008年8月18日 第2回例会 | 石巻赤十字病院院長 飯沼 一宇(かずいえ)氏 |
幕末の会津 |
「タイトルは『幕末の会津』であるが、幕末から維新後を生きた会津人について話したい」と述べられ、祖父である白虎隊士飯沼貞吉を主体に著名な会津人である山川健次郎、柴五郎について約45分にわたり語られました。(要旨) 飯沼貞吉については、家系、藩校日新館における教育指針・什(じゅう)の掟、白虎隊の組織、飯盛山における自刃と助けられ蘇生するまでの経緯、長州藩士の凱旋に伴われての長州滞在、その後逓信省に勤務し仙台で没するまでの生涯について、お身内ならではの情報を交え詳しく解説していただきました。飯盛山の参道店頭に展示されている貞吉翁の晩年の風格ある写真が一宇氏の育った仙台の自宅で撮影されたものであること、貞吉翁が記憶に基づき絵師に書かせたという(一宇氏の長兄宅に保存されている)飯盛山における自刃の図などもスライドで紹介いただきました。飯盛山での自刃の状況など初めて聞く事実も多く、参加者一同大いに心を打たれました。 山川健次郎については、飯沼貞吉母方のいとこにあたり貞吉と同様白虎隊士であること、維新後選ばれてアメリカ・イエール大学に国費留学その後東京帝大物理学教授・理学博士、東京・京都・九州各帝大の総長を歴任された会津を代表する偉人であることなど、一宇氏はその功績を述べられました。 柴五郎については、旧会津藩士が移住させられた斗南藩(となみはん、現青森県むつ市に藩庁を置く)で辛酸を嘗めた後陸軍幼年学校に進み、陸軍大将まで昇進した軍人で、清国駐在武官時代に発生した義和団の乱(清国の攘夷行為)の際に卓越したリーダーシップを発揮し、後日各国から勲章を授与されるなど国際的な功績があったことを紹介された後、中公新書「ある明治人の記録−柴五郎大将の遺書」に記された涙なくしては読むことのできない斗南藩時代の生活の様子の一部を読み上げ、読んでない方は是非一読されるよう勧められました。 |
お話中の飯沼氏 | 日新館 什の掟 を説明する飯沼氏 |
講演年月日 | 講演者 | 演題 |
2008年5月8日 第1回例会 | オンワード樫山 杉本大雄氏 末広酒造椛纒\取締役社長 新城 猪之吉氏 |
クールビズガイダンス 遠藤敬止を語る |
会場を提供していただいたオンワード樫山のメンズ・レディーメード販売課杉本大雄氏で、「クールビズ・ガイダンス」と題して省エネ時代のクールビズについて考え方とおしゃれな装いをポイントにお話しいただきました。夏に向かう季節のタイムリーな話題に会員から多くの質問が飛んでいました。 研修会お二人目の講師には、遠藤敬止顕彰会会長新城猪之吉氏(末廣酒造第7代目社長)を会津若松市からお招きし、「遠藤敬止を語る」と題して遠藤敬止翁の会津と宮城との関わり、経歴、功績などについてお話しいただきました。顕彰会会長ならではの情報をもとに逸話も交え、ユーモアある語り口で熱弁をふるっていただき、会員一同深い感銘を受けました。新城猪之吉氏はこの日、遠藤敬止翁の墓所・仙台市新坂町充國寺に墓参されてから会場に来られたとのことで、みやぎ会津会には今後墓守をお願いしたいと話されております。 |
オンワード樫山杉本氏の「クールビズガイダンス」 | ”遠藤敬止を語る” 遠藤敬止顕彰会会長・末廣酒造社長7代目新城猪之吉氏 |